家紋のワンポイント
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■ 賜った家紋

■ 葵紋

 徳川家をはばかって江戸時代に改紋した諸家。
・ 桜井松平家: 葵紋 → 九曜紋、桜紋、蛇の目紋。
・ 大給松平家: 三つ葉葵紋 → 一葵紋
・ 竹谷松平家: 三つ葉葵紋 → 丸内一引紋、五枚根笹紋
・ 形原松平家: 丸に向こう三つ葉葵紋 → 利文字紋、蔦葉八丁子紋
・ 五井松平家: 葵紋 → 丸に一葉葡萄紋、花葵紋
・ 能見松平家: 丸に三つ葉葵紋 → 桐紋
・ 松平松平家: 丸に葵紋 → 藤輪の内に葵紋、五三桐紋
・ 長沢松平家: 葵紋 → 花丁子紋
出典

・ 本多平八郎忠勝が、葵の紋からの改紋を家康に願い出たら、家康は目に涙を浮かべ「平八郎。徳川の基礎はお前の槍先の功名に負うところが多い。わしは、お前を他人とは思わぬ。これまで通りの家紋を用いてよいぞ」と異例の沙汰を出した。しかし、本多家は主家と同じでは恐れおおいと、三つ葉葵紋から立ち葵紋にかえた。【出典

■ 庵紋(いおりもん): 歌舞伎の「夜討曽我」など、いわゆる曽我ものには、「庵に木瓜」という紋が必ず登場する。これは曽我兄弟の紋として有名。庵は、草や木で作った飾り気の無い素朴な建物で、風流を愛する人や世捨て人が山野に営んだ。庵紋は木瓜や桔梗、鶴、文字紋などをいれて、複合した形で使用された。伊東家工藤家海老名家板橋家三隅家長尾家葛山家杉山家などに見られる。【出典

■ 庵紋(いおりもん): 本来の庵とは、茅や木などで作られた簡素な小屋のこと。転じて、簡素な住まいを庵と呼ぶようになった。江戸時代以降に使用している家が増えた。【出典

■ 筏紋(いかだもん): 木や竹を蔓または縄でつなぎ合わせた筏は、主に運搬に使用された。花筏は春の谷川を下っていく風流な様子を意匠化したもの。【出典

■ 伊勢氏: 向かい蝶紋。表記の伊勢守貞親は伊勢貞親。室町幕府で政務の実権を握った人物である。【出典

■ 「梅」と「桜」: 和歌などで「花」といえば「桜」をさすが、それは平安時代からのことで、奈良時代以前は「梅」のことを指した。【出典

■ 男紋と女紋: 女紋がはっきりした形ででてくるのは江戸時代
・ 嫁入りの際に、留め袖や喪服を持って行く場合、そこに描く紋は婚家の紋にすべきか、実家の父の紋にすべきか、または実家の母の紋にすべきか?これは地方によって異なる。関東地方では、そこの家に男紋と女紋が決まっていて、嫁に行くときに御小袖料(おこそでりょう)、いわゆる結納金というものがあり、嫁ぎ先の女紋をつけて嫁入りする。つまり、嫁入り婚というのは向こうの家の形に入っていくことになる。関西地方では、婿取り婚の名残が、母方の家筋を大事にするという形で残っている。したがって、嫁に行くときは母親の紋を背負っていく。山形では、実家の紋を持って行くのではなく、嫁ぎ先の女紋を聞いて、それを嫁入り道具につけるという。【出典
・ 現在においては、和服の譲渡も踏まえ、家の家紋ではなく、桐や桔梗や蔦紋に統一されている場合がある。【出典

■ 角持ち紋: 角持ちは石餅(こくもち)の意味とされ、石高が増えるという願いを込めて家紋に使用された。これを使用したのは黒田家が有名。【出典

■ 篭紋: ざるやかごなど、竹製の編み目を図案化したものだが、魔除けの呪符としての意味合いが大きいとされる。旗本の小宮山家や曲淵家などに見られる。【出典

■ 兜紋(かぶともん): 頭部を保護するための防具をかたどった家紋。発生当時は簡素なものだったが、平安時代末期から戦国時代にかけて、名のある武将が武勇や威厳を示すために使用することが多くなった。【出典

■ 鎌倉時代中期、同族間の戦いが頻発することにより、家紋は必須のものとなった。【出典

■ 家紋の源流はヘレニズム文化で、平安時代には日本独自の和風紋様が発達した。【出典

■ 家紋の所有数: 仙台の伊達家は7つの家紋をもっていた。土佐の内家は9つ、紀州徳川家は14つ。【出典

■ 家紋は自然発生的に生まれたもので、その成立時期の特定は難しい。【出典

■ 木紋: 古代建築で権威の象徴だった。棟に交差させた「×印」の木を紋様としたもの。現在でも、伊勢神宮などの神社に、この建築構造が継承される。神家の物部氏や、加藤家遠山家などに見られる。【出典

■ 企業のロゴマーク
・ 三井家: 「丸の内に井筒三文字紋」。三井家の先祖は、藤原道長の四男の長宗から出たとされ、道長から六代の右馬之助信生(うまのすけのぶなり)が初めて三井氏を称したという。それは、近江国に住まおうと土地を探していたときに、三つの井戸を見つけ、その一つに金銀が詰まっていたことに由来する名字。【出典
・ 日本石油: 「蝙蝠」。1889年に、新潟県長岡で会社設立の発表会が行われていたときに、そのパーティーの最中に、一羽の蝙蝠が会場に飛び込んで来た。中国では、桃と並んで、蝙蝠は慶事・幸運の印であった。社章はまだ決まっていなかったので、社長は即座に蝙蝠を社章にしようと提案し、全員が拍手でこれを歓迎した。【出典

■ 九字紋(くじもん)出典
# 九字とは、九文字の呪文を唱えながら空中に手印を結ぶ護身法のこと。
# 藤原北家利仁流の加藤氏遠山氏の一族に多く見られる。遠山金四郎で有名な旗本の遠山家の「六本格子紋」は「九字紋」から変化したもの。
# 藤原北家利仁流や藤原北家秀郷流の波多野一族で使用される。「寛政譜」では、美濃国苗木藩遠山氏、幕臣の伊丹家波多野家加藤家遠山家、賀茂宮家や、沼田氏、坂東氏、森沢氏などで使用された。
# 中部地方、関東地方に多く見られる。

■ 九字紋(くじもん): 星紋を安倍晴明にちなんで「セーマン」と呼ぶ。これに対して、九字紋も陰陽師の蘆屋道満の判ということで、「ドーマン」という。九字とは、中国の古い兵法に基づく。これは、「臨(りん)、兵(びょう)、闘(とう)、者(しゃ)、皆(かい)、陣(じん)、列(れつ)、在(ざい)、前(ぜん)」と一字づつ唱えながら、十字を切るというもの。そうすると、どんな災いも免れるとされ、密教僧や忍者などが使用した。遠山家加藤家伊丹家、賀茂宮家、波多野家などに見られる。【出典

■ 軍旗(ぐんき): 「旗」が目印として使用されたのは、景行天皇の時代が最初であった。日本書紀には、景行天皇が熊襲討伐に向かう途中、現在の山口県防府市のあたりで、女首長の神夏磯姫(かみなつそひめ)が、天皇の軍勢を恐れて降伏したとある。この時に、神夏磯姫は賢木(さかき)の上の枝に、八握剣(やつかのつるぎ)を掛け、中の枝に八咫鏡(やたのかがみ)を掛け、船の舳先に白旗をかかげた。この白旗は、降伏の目印として使用された。やがて、色彩を施された旗が、戦いの目印になり、敵味方を識別するために使用される。【出典

■ 源氏の世の中になって、すべて白旗になった。ちなみに平氏は赤旗。鎌倉幕府を開いた源頼朝は、1189年に義経を匿ったとして奥州藤原氏討伐に向かった。このときに、頼朝は頭上に白旗を掲げると共に、千葉常胤が献じた軍旗をも掲げた。そこには八の字形の二羽の鳩が向き合った絵を縫い付けてあった。そして、その上部に、伊勢大神宮、八幡大菩薩と墨書きされていた。頼朝はこのように、自分の元に参集する武士達に、その家が一目で分かる印を与えた。白い猪を弓で射止めた朝倉氏には「三つ盛り木瓜」を、二羽の鶴を見事に弓で生け捕りにした南部氏には「鶴」を、平家追討の功績でによって島津氏には「十字」の紋を与えた。【出典

■ 見聞諸家紋: 1460〜70年頃に成立したとされる最古の家紋集。室町幕府の八代将軍の義政のころの将軍家や守護大名から地方に土着した武士に至るまで、約300家の260家紋が掲載されている。【出典

■ 魚の家紋は無い?: 神功皇后は新羅を攻めるべきかどうかを、鮎が釣れるかどうかで占った。従って、「鮎」の漢字は「魚で占う」と書く。「鯉紋」など、一部には見られるが、基本的に魚の家紋は無く、これは謎とされている。【出典

■ 猿紋: 綿を布でくるんで猿を象った。括り猿を表した。日吉神社の神紋として有名で、他には歌舞伎役者の市川猿之助が使用する。【出典

■ 定紋と替紋: 定紋を表紋といい、替紋を裏紋または副紋という。
・ 定紋(じょうもん): 徳川幕府が各大名や旗本に対して、代表紋ひとつを提出させ、それを苗字と一体とした紋としたもの。江戸城への登城の際や大名行列のときに使用した。【出典

■ 人類は、有史以前から紋様を描く営みを行ってきた。アフリカのサハラ砂漠にある岩山の「タッシリ・ナジュール」には少なくとも紀元前8500年より前に刻まれたと推定される岩絵が現在も残っている。また、フランス西部のラスコー洞窟に残された壁画は、これよりも古く紀元前1万5000年前頃に描かれたと推定される。
 こうした紋様が、現在の家紋に通じる家系や権威の象徴として機能した走りは、印章であろう。【出典

■ 大極円紋: 江戸時代に、儒学が流行したため、家紋になった。宇宙の根本である大極・陰陽を表した。安岡家などに見られる。【出典

■ 短冊紋(たんざくもん)、筆紋(ふでもん): 短冊は、花見などの宴で和歌を書く料紙のこと。醍醐の花見は、秀吉一代の盛儀だった。この時、金銀の泥をもって山水花鳥をあしらい、霞を引いた短冊が使用された。秀吉淀殿などの手による131葉の、桜の木に結びつけた短冊が残っている。家紋は、短冊に桜を配する優雅な意匠。筆は車に見立てた筆車が美しい。「短冊紋」は出口家など、「筆紋」は鶴田家などに見られる。【出典

■ 豊臣秀吉が賜与した桐紋(厳密に言えば藩ではないが)

・ 加賀藩前田家: 五七桐紋
・ 仙台藩の伊達家: 五七桐紋
・ 土佐藩の山内家: 五七桐紋
・ 赤穂藩の森家: 五三桐紋
・ 新見藩関家: 五三桐紋
・ 伊勢国鷹野の土方家: 五三桐紋
・ 足守藩木下家: 五七桐紋
・ 三草藩丹羽家: 五七桐紋
・ 延岡藩の内藤家: 五七桐紋
・ 挙母藩内藤家: 五七桐紋
・ 高遠藩の内藤家: 五七桐紋
・ 岩村田藩の内藤家: 五七桐紋
・ 糸魚川藩の松平家: 五三桐紋
・ 山家藩の谷家: 五三桐紋
・ 龍野藩の脇坂家: 五三桐紋
・ 出石藩仙石家: 五三桐紋
・ 出雲国母里藩松平家: 五三桐紋
・ 佐伯藩毛利家: 五三桐紋
出典

# 「羽柴」を名乗った大名達

■ 長い家紋: 2022/06/22現在、一番長い表記と思われる家紋はこれ。「隅切り鉄砲菱持ち合い三つ盛り亀甲に花角紋

■ 引両紋(ひきりょうもん)

■ 平安時代末期に近づくと、紋様自体が遊び心を含んだ道具として使用されるようになった。こうした経緯を経て、当初は権力の誇示と実用性を軸に「身印(みしるし)」という呼ばれ方で、個人を示すものとして扱われていた紋様は、一代限りのものではなく世襲されるものとなり、家の紋様、すなわち家紋として成立していった。【出典

■ 蛇紋: 江戸時代中期頃から、旗本に好まれた紋で、元は海事関係の家で使用されていた。平氏清盛流や織田家庶流の藤懸家や藤原氏流堀家などに見られる。【出典

■ 鞠挟み紋(まりはさみもん)、琴柱紋(ことじもん): 蹴鞠は貴族の遊び。その鞠の紋もあるが、鞠を挟む用具が、形の妙から好まれた。鞠挟みを外輪にし、花菱、三星などを入れるものもある。琴柱とは、琴の弦を支える小さな用具。その紋は鎌倉時代から見られる。「鞠挟み」は西尾家佐田家板倉家高橋家、壺井家。「琴柱」は秋間家、後藤家、野呂家、佐倉家、井戸家、橘家などで見られる。【出典

■ 源頼朝は「源」姓と無地の白旗を独占することで嫡流の権威を守ることに固執したが、続く南北朝時代に入るとこれらは臣下への恩賞として広くばらまかれるものに変貌した。その端緒となったのは、建武の新政を成し遂げた後醍醐天皇である。鎌倉幕府を滅亡に追い込み、天皇の親政を復活した後醍醐天皇は、味方した武士たちに与えることができる所領は少なかった。そこで恩賞として利用されたのが諱(いみな)と家紋であった。諱とは、身分を上にする者の実名のことで、これを与えられたのが足利尊氏である。足利高氏から天皇の諱である尊治の「尊」の一字を与えられ「尊氏」と改名した。また、尊氏は「菊紋」と「桐紋」を賜った。【出典

■ 室町幕府の第十三代将軍の足利義輝は、織田信長の父親である織田信秀に桐紋を授けた。【出典


■ 家紋の分布

■ 家紋の移動

■ 家紋の分類

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