「南部」の名字の由来
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■ 南部(なんぶ・なんべ)

【2022/09/30:改編】

# 917位

# 甲斐源氏武田氏流加賀美氏系などに見られる。

# 代表家紋

# 南部氏: 南部鶴紋。甲斐国の武田氏庶流で、甲斐国南部をルーツとする。【あなたの起源を読み解く 名字の世界 インデックス編集部 イースト新書Q】

# 南部氏の姓は「源」

# 陸奥国の戦国大名清和源氏の出で、加賀美遠光の三男の光行が源頼朝に与して石橋山の合戦で功をあげ、甲斐国巨摩郡南部郷(山梨県南巨摩郡南部町南部)を賜ったのが祖。後に、奥州合戦の功で、1189年に陸奥国糠部郡の地頭になったというが詳細は不詳。鎌倉時代末期に陸奥国に下向した。建武政権下で、時長・師行・政長兄弟が台頭、師行は北畠顕家から北奥の奉行に抜擢されて基礎を築いた。広大な糠部郡に九戸四門制をしいて各地に一族を分出、陸奥国北部に大きな勢力を持った。特に嫡流の三戸南部氏と八戸城に拠った八戸南部氏が大きな勢力をもった。南北朝時代は、八戸南部氏は南朝に、三戸南部氏は北朝に属し、室町時代には三戸南部氏が幕府との結びつきが強く、主導的な立場にあったと思われる。戦国時代、三戸南部氏の信直が南部氏を統一し、1582年に豊臣秀吉から南部7郡を安堵された。1598年に盛岡城を築城し、関ヶ原の合戦では東軍に属し、その後南部藩10万石。【出典

# 関西地方から北陸地方にかけて多くみられる。

# 福井県:78位、三重県:282位、富山県:288位、高知県:344位、滋賀県372位など。

# 甲斐武田氏庶流である加賀美氏の初代遠光(とおみつ)の子の光行(みつゆき)が甲斐国南巨摩郡南部村(山梨県南巨摩郡南部町南部)に移り住んだことに由来する。

# 平安末期の奥州合戦に光行が参加して、陸奥国に土着し、後の陸奥南部氏のもととなる。南部信直の家紋

# 土佐の南部氏は陸奥の南部氏の同族。

# 南部家(なんぶけ): 家紋「南部鶴紋

・ 陸奥国糠部郡三戸(青森県三戸町)を本拠地とした。

・ 清和源氏武田氏の一族で、甲斐国巨摩郡南部郷をルーツとする。南部氏の祖の光行が奥州合戦の功で陸奥国糠部郡の地頭となって転じた。24代の晴政は陸奥国の北部を制して勢力を伸ばした。26代の信直は豊臣秀吉に領地を安堵された。江戸時代には本拠地を盛岡に移し盛岡藩主(南部藩主)。【戦国大名「御家」系譜事典 宝島社 監修:森岡浩】

# 青森県の南部家

# 岩手県の南部家

# 富山県の南部家

# 南部から派生した名字には「中野」「大浦」などがある。

# ロサンゼルスオリンピック金メダリストの南部忠平は北海道札幌市の出身。ノーベル賞の南部陽一郎は福井県福井市の出身。

# 南部(なんぶ):  山梨県南巨摩郡南部町南部。地名の由来は、南部氏の居城・居館があったことによる。城山に南部氏の城跡があり、また穴山氏の古跡もある。【出典

# 南部郷: 鎌倉時代から戦国時代にかけて甲斐国巨摩郡にみられた郷名。鎌倉期〜戦国期に見える郷名。巨摩郡のうち。単に南部ともある。南部実長は河内谷南部に蟠踞した南部氏の一族で、波木井郷に居住したため、波木井殿と呼ばれた。南部氏は新羅三郎義光に始まる甲斐源氏であり、加賀美遠光の子光行を祖とし、その一族は奥州にも所領をもち、岩手の南部氏は近世大名となる。南部は広くは、南部町・身延町南部の一体を含む地域に比定されるが、戦国末期には現在の南部町南部・本郷・成島・柳島付近を指したと考えられる。【出典

# 七戸藩 ・ 南部藩 ・ 八戸藩

# 富山県内の「南部」の名字の詳細

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