南部藩
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■ 南部藩(岩手県盛岡市)

・ 「南部」の地名 ・ 「盛岡」の地名

・ 南部家20万石・外様。

・ 南部大膳大夫

・ 南部家は小笠原家の同族で、甲斐国巨摩郡南部を領していたが、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした後、陸奥国糠部郡の地頭になった。1619年に盛岡に転じた。

・ 明治維新後、盛岡藩は20万石から13万石へ減知して宮城県の白石に転封と決まった。しかし、領民が反対運動を行った。その結果、転封は撤回され70万両の献金にさしかえられた。【江戸300藩の意外な「その後」 日本博学倶楽部 PHP研究所】

・ 盛岡藩: 戊辰戦争による死者は112人。【江戸300藩の意外な「その後」 日本博学倶楽部 PHP研究所】

・ 幕末に、南部藩は、楢山佐渡、東中務。楢山佐渡は、兵を率いて官軍派の秋田藩を攻撃したが、北越の諸藩や二本松藩三春藩棚倉藩などが降伏。8月29日には米沢藩、9月15日には仙台藩、9月22日には会津藩が降伏し、会津藩が残った。あれ?庄内藩は。【名家老列伝 組織を動かした男たち 童門冬二 PHP文庫】

・ 岩手県の県北は主として盛岡に居を構える盛岡藩南部家。もともと、「南部」という名は、甲斐国の郷名(現在の山梨県南部町)で、南部家のルーツは武田源氏と言われている。南北朝時代に奥羽に居を移して、戦国時代に「八戸系」と「三戸系」に分かれた。その後、「三戸系」は盛岡に居を移す。陸奥国岩手郡(盛岡市)10万石(ただし、幕末に北方警備のため20万石に石高を見直し(領地はそのまま)→役高加増みたいなものか?原敬、東条英機、両総理は南部藩の家臣の出。

# 盛岡藩ともいう。盛岡に藩庁を持つ。外様。城持。中世初頭糠部(ぬかのぶ)5郡に領地を得て八戸(はちのへ)に入部し、以来陸奥北部に勢力を有した南部氏が、近世初頭不来方城を本拠として南の方にも力を及ぼし、信直を藩祖として幕府体制下の南部藩を開いた。【出典

# 南部藩士(盛岡藩士): 相内家 ・ 相羽家 ・ 赤石家 ・ 赤前家 ・ 阿野家 ・ 荒川家 ・ 飯富家 ・ 猪去家 ・ 五日市家 ・ 一方井家 ・ 岩清水家 ・ 内堀家 ・ 梅内家 ・ 浦上家 ・ 江柄家 ・ 江刺家 ・ 江刺家家 ・ 大萱生家 ・ 大川家 ・ 大釜家 ・ 大沢家 ・ 大田代家 ・ 奥寺家 ・ 長内家 ・ 小田島家 ・ 小田代家 ・ 乙部家 ・ 鬼柳家 ・ 鶏冠井家 ・ 欠端家 ・ 柏山家 ・ 勝木家 ・ 金矢家 ・ 釜石家 ・ 釜沢家 ・ 上斗米家 ・ 鴨沢家 ・ 簡家 ・ 儀俄家 ・ 岸田家 ・ 北家 ・ 喜多見家 ・ 金田一家 ・ 葛家 ・ 葛巻家 ・ 厨川家 ・ 毛馬内家 ・ 小枝指家 ・ 後藤家 ・ 小屋敷家 ・ 西海枝家 ・ 桜庭家 ・ 三戸家 ・ 鹿討家 ・ 雫石家 ・ 設楽家 ・ 柴内家 ・ 渋民家 ・ 下河原家 ・ 下斗米家 ・ 台家 ・ 大光寺家 ・ 平館家 ・ 田頭家 ・ 高田家 ・ 種市家 ・ 富沢家 ・ 那珂家 ・ 中里家 ・ 長沼家 ・ 那須川 ・ 波岡家 ・ 楢山家 ・ 野田家 ・ 野々村家 ・ 野辺地家 ・ 花坂家 ・ 花輪家 ・ 蟇目家 ・ 日戸家 ・ 戸来家 ・ 本堂家 ・ 松岡家 ・ 女鹿家 ・ 横浜家 ・ 和井内家

# 盛岡藩(もりおかはん): 陸奥国。盛岡城。南部家。外様大名。20万石。天正18年(1590年)に立藩。控間:大広間格:国主位階:従四位下。上屋敷:千代田区日比谷公園。天正18年に、南部信直豊臣秀吉から南部七郡を安堵され、さらに三郡を加えられて10万石となった。慶長4年(1599年)には、盛岡に居城を移し、江戸時代後期には高直しによって20万石になった。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に属し、新政府側の久保田藩領に攻め込んで、また弘前藩と野辺地で戦った。そのために、戦後、一時は陸奥国の白石13万石に減封され、明治3年に、明治政府に願い出て廃藩になった。【出典


【注意】転封などがあるため、藩主や石高には変化があります。ここでは一例を掲載しています。

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