津軽藩
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■ 弘前(津軽)藩(青森県弘前市

・ 「弘前」の地名 ・ 「津軽」の地名

・ 津軽家10万石・外様。

・ 津軽出羽守

・ 1443年頃に、南部氏安東氏蝦夷地においやり、津軽地方も支配下においたが、郡代大浦氏が独立して津軽地方を領した。

・ 津軽地方は寒冷地で天明の飢饉では8万人の餓死者をだした。そのため、多くの農民を他国から移住者として受け入れた。

・ 弘前藩は幕末の箱館戦争の際に、官軍の兵力の6割を提供し、軍費は多額にのぼった。その結果、とったのが「帰田法(きでんほう)」だった。「帰田法」とは、家禄を払うことができない藩士たちに、無償か、ごくわずかの金額で農民から土地を譲り受けて分与した。つまり、藩士たちに農業をさせようとした。【江戸300藩の意外な「その後」 日本博学倶楽部 PHP研究所】

・ 津軽為信 ・ 津軽信順

・ 津軽家(つがるけ・大浦家): 家紋「杏葉牡丹紋」: 陸奥国津軽郡大浦(青森県弘前市)を本拠地とした。 南部氏庶流久慈氏の出といわれるが不詳関ヶ原の合戦では東軍に属し、江戸時代には陸奥国弘前4万7千石。【戦国大名「御家」系譜事典 宝島社 監修:森岡浩】  

・ 津軽家は陸奥の名門南部氏の家臣で、戦国時代までは大浦氏を名乗っていた。秀吉の小田原参陣後津軽に改姓陸奥国津軽郡(弘前市)10万石。最近では津軽家の末娘の華子様が常陸宮正仁親王の妃殿下。

・ 弘前藩、天明の大飢饉では人口約20〜25万人のうち、8万1702人の餓死者をだした。【東北 不屈の歴史をひもとく 岡本公樹 エルパカBOOKS】

# 津軽藩士(弘前藩士): 赤石家 ・ 石郷岡家 ・ 乾家 ・ 笠原家 ・ 兼平家 ・ 兼松家 ・ 唐牛家 ・ 貴田家 ・ 木立家 ・ 喜多村家 ・ 隈部家 ・ 金家 ・ 進藤家 ・ 杉山家 ・ 添田家 ・ 大道寺家 ・ 高倉家 ・ 新岡家 ・ 西館家 ・ 乳井家 ・ 堀家 ・ 牧野家 ・ 棟方家 ・ 毛内家 ・ 森岡家 ・ 山中家

# 天明の飢饉による死者

# 弘前藩(ひろさきはん): 陸奥国。弘前城。津軽家。外様大名。10万石。天正18年(1590年)立藩。控間:大広間格:城主位階:従四位下。上屋敷:墨田区緑。戦国時代まで、弘前は三戸城の南部氏が派遣した津軽郡代によって支配されていた。しかし、南部氏が家督争いで混乱している隙に乗じて、南部氏の一族であった大浦為信が南部氏の津軽郡代を滅ぼして津軽地方を実行支配した。そして、津軽氏を称して、天正18年(1590年)に豊臣秀吉から津軽4万5000石を安堵されて立藩した。関ヶ原の合戦では東軍に属し、上野国勢多郡内で2000石を加増されて4万7000石になった。その後、高直しで10万石になった。戊辰戦争では、途中から新政府方について、隣接する南部藩と野辺地で戦って、蝦夷地松前から逃れてきた松前藩主一行を庇護した。【出典


【注意】転封などがあるため、藩主や石高には変化があります。ここでは一例を掲載しています。

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