「安東」の名字の由来
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■ 安東(あんどう)

【2023/04/19:改編】

# 大分県や岡山県に多くみられる。

# 陸奥の安東氏は安倍貞任の子の高星丸(たかあきまる)の子孫と言われる。

# 豊後の安東氏は伊豆国安東荘(静岡県)をルーツとし、藤原北家魚名(藤原魚名)流。

# 美作の安東氏は出自不明と言われる。

# 陸奥国出羽国豪族安倍貞任の子の高星の子孫というが、おそらく蝦夷の出だろう。本来は津軽の豪族であった。本来は津軽の豪族であった。鎌倉時代には幕府の被官であったと思われ、蝦夷管領に任命され、実質的に奥羽を支配した。鎌倉時代末期に、支配下の蝦夷が叛乱をおこし、これに安東氏の内訌が結びついて内乱状態になって幕府の追討を受けたが、和睦した。南北朝時代の頃、貞季の子の盛季が下国家、その弟の鹿季が上国家を興したとされる。下国安東家は陸奥国津軽郡十三湊(青森県五所川原市)の福島城に拠ったが、嘉吉3年(1443年)に南部義政に拠って蝦夷の松前に追われた。政季のときに出羽国に戻って出羽国秋田郡に転じて米代川流域を支配して檜山安東氏を称した。陸奥国津軽郡藤崎(青森県南津軽郡藤崎町)に拠った上国家は室町時代には出羽国に転じ、湊城(秋田市)に拠って湊安東氏を称し、秋田郡を支配した。友季の子の堯季には男子がおらず、檜山安東氏の舜季を女婿として迎えた。舜季の子の愛季のときに両家を統合、男鹿脇本城(秋田県男鹿市脇本)に本拠地を転じ戦国大名になった。天正18年(1590年)に実季が豊臣秀吉に従い、慶長3年(1598年)に土崎湊(秋田市)を築いて、秋田氏改称した。【出典

# 福岡県の安東家

# 秋田家(安東家)

# 青森県南津軽郡藤崎町は安東氏発祥の地とされている。
藤崎町: http://www.town.fujisaki.lg.jp/index.cfm/6,0,13,227,html

# 「安」のつく名字

# 「東西南北」のつく名字

■ 安藤(あんどう) → 詳細

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