岩手県内の「南部」の名字の詳細
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■ 南部(なんぶ): 岩手県の南部家 

# 岩手県の南部家: 南部藩主甲斐国巨摩郡南部郷(山梨県南巨摩郡南部町南部)をルーツとし、清和源氏武田氏の一族の加賀美家の分家。源頼朝が奥州を平定したときに、陸奥国糠部郡の地頭となった。【出典

・ 【家紋:南部鶴紋明治維新後には伯爵

・ 南部藩の最後の藩主の南部利恭は白石13万石に移されたが、70万両の償金の支払いと引き替えに盛岡に戻った。しかし移動による疲弊が大きく廃藩置県を待たずに廃藩となった。

・ 盛岡藩主。戦国大名の南部氏の子孫。戦国時代、三戸南部氏の信直が南部氏全体を統一、1582年に豊臣秀吉から南部7郡を安堵された。1598年には盛岡城を築城、関ヶ原の合戦では東軍に属し、戦後南部藩10万石を立てた。1627年には八戸南部氏を遠野に移して家臣団を完全に組み込み支配体制を強化した。1808年の高直しでは20万石になった。明治時代には伯爵。【出典

# 岩手県の南部家: 南部藩家老で遠野の南部家。南部家初代の光行の六男の実長の子孫。【出典

・ 南部藩の家老で遠野南部家。南部家初代の光行の六男の波木井(はきい)実長の子孫。1334年に師行の時に陸奥国糠部郡に下向。根城(ねじろ・青森県八戸市)を築城して八戸南部氏または根城南部氏と言われた。室町時代には岩手郡や閉伊郡、出羽国仙北郡にまで勢力を広げ、天文年間には津軽郡にも進出した。1590年の豊臣秀吉の奥州仕置を機に正式に三戸南部氏の支配下に入った。1627年に直義のときに八戸から遠野に転じ、以後遠野城主として1万2000石を領し、南部藩の重臣になった。明治時代には男爵。【出典】 

# 陸奥国の戦国大名清和源氏の出で、加賀美遠光の三男の光行が源頼朝に与して石橋山の合戦で功をあげ、甲斐国巨摩郡南部郷(山梨県南巨摩郡南部町南部)を賜ったのが祖。後に、奥州合戦の功で、1189年に陸奥国糠部郡の地頭になったというが詳細は不詳。鎌倉時代末期に陸奥国に下向した。建武政権下で、時長・師行・政長兄弟が台頭、師行は北畠顕家から北奥の奉行に抜擢されて基礎を築いた。広大な糠部郡に九戸四門制をしいて各地に一族を分出、陸奥国北部に大きな勢力を持った。特に嫡流の三戸南部氏と八戸城に拠った八戸南部氏が大きな勢力をもった。南北朝時代は、八戸南部氏は南朝に、三戸南部氏は北朝に属し、室町時代には三戸南部氏が幕府との結びつきが強く、主導的な立場にあったと思われる。戦国時代、三戸南部氏の信直が南部氏を統一し、1582年に豊臣秀吉から南部7郡を安堵された。1598年に盛岡城を築城し、関ヶ原の合戦では東軍に属し、その後南部藩10万石。【出典

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