大友宗麟
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■ 大友宗麟(おおともそうりん)【出典】: 「大友」の名字の由来
・ 1530−1587年。享年58歳(病死)。
・ 出身地: 豊後国。
・ 肩書き: 武将。
・ 家族: 父:大友義鑑。
・ 家紋: 大友抱き杏葉紋。
・ キリシタン大名。宗麟は法号で、本名は義鎮(よししげ)。家督相続によるお家騒動では、立花道雪らを味方につけて、家臣の結束をかためた。その後、宗麟は肥後国に進出し、1554年に菊池氏を滅ぼして勢力を拡大した。1557年に大内氏が毛利元就に滅ぼされると、宗麟は大内氏の戦後処理に関与しないかわりに、元就が九州に干渉しないという密約を交わした。背後を固めた宗麟は、南方に侵攻して、九州六カ国を領し、さらに伊予国と日向国の半分を領した。その後は、防衛のために他の大名からの攻撃をしのいだが、1570年に入るとついに支えきれなくなって、徐々に領土を失った。1584年に、滅亡の危機を悟った宗麟は、豊臣秀吉に救いを求めた。秀吉は九州攻めを行って、これに他の大名が従属したために、大友氏は滅亡を免れた。しかし、この年、宗麟は病死した。
・ 1502−1550年。大友宗麟の父。1550年に、長男の宗麟を廃し、溺愛する三男の塩市丸を跡継ぎにしようと、宗麟派の家臣を殺害した。これを、二階崩れの変。【出典】
・ 1558−1610年。大友宗麟の嫡男。豊臣秀吉の朝鮮出兵での失態で改易となって、幽閉された。関ヶ原の合戦では西軍について、流刑地で病没した。【出典】
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