肥後国 | |
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# 旧西海道。
# 現在の熊本県。
# 太閤検地での石高: 34万石。【戦国大名県別国盗り物語 八幡和郎 PHP文庫】
# 延喜式による国力順位(納税額による)【本当は面白い「日本中世史」 八幡和郎】。肥後国は3位。
# 古代表記: 火の国 → 肥前・肥後
# 肥後国「菊池」には、大和朝廷時代に、鞠智城(くくち城)という城があった。朝鮮からの防御用。鞠智城は続日本紀の698年に初めて出てくる。
# 火の国の名前の発祥は、氷川(八代郡氷川)?
日本書紀には、「景行天皇が、熊襲を成敗の帰りに芦北から船出し、岸につかないうちに日が暮れた。はるかに火が見えるので、これを目指して岸に着き、天皇がその火の所在を尋ねると、この邑は八代の郡の火の邑と答えたが、火の主は誰も知らなかったので、火の国と名づけた。
■ 球磨郡(くま): 旧肥後国・熊本県。古代から肥後国にみられた郡名で、球麻・球摩などとも書いた。球磨の名称は記紀神話の熊曽(襲)にさかのぼる。【出典】
■ 玉名郡(たまな): 旧肥後国・熊本県の郡名。北から、菜切川・行末川・境川・菊池川・唐人川などが南西に流れて有明海に注ぐ。これらの河川を中心にして沖積平野と江戸期の有明海干拓新地が今日見られる平野である。現菊池川左岸に展開する小田牟田新地は、伊倉・豊水・大浜と旧玉水村・旧横島村にまたがる玉名郡最大の新地であるが、その多くは加藤清正の菊池川掘替之部と細川氏時代の干拓事業によって形成されたという。玉名平野は現岱明(たいめい)町・長洲町・玉名市間に立地するが、菊池川右岸の大野牟田や有明海沿岸地域は江戸期に形成されたものであるが、境川周辺地には弥生時代・古墳時代の遺跡があり、条里制の名残もあって古代からの耕地であったと思われる。【出典】
・ 「玉名」の由来
■ 益城郡(ましき): 古代よりの肥後国の郡名。「肥前国の風土記」や「肥後国風土記」逸文に、景行天皇の時代、火の君(肥君)の祖健緒組に打ち払われた土蜘蛛の打猴・頸猴らの本拠地として「益城の郡の朝来名の峰」が見え、平城宮跡出土木簡の1つに「肥後国益城郡調綿壱伯屯四両」とある。「続日本紀」宝亀元年10月1日条によれば、同年8月17日益城郡の山稲主なる者が朝廷に白亀を献上したことにちなみ、宝亀と改元したとある。鎌倉幕府成立後、北条氏が阿蘇社領の地頭職と預所職を努めた。【角川地名大辞典】
# 益城(ましき): 肥後国益城郡(熊本県上益城郡益城町)。熊本県天明町益城。「マセ・キ」で、マセは柵、キは木で、人馬などの入るのを防止する簡単な砦。益は文字を飾ったもの。【出典】