鹿児島県内の「島津」の名字の詳細
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■ 島津(しまづ): 鹿児島県の島津家 

# 鹿児島県の島津家: 薩摩藩主。鎌倉時代の守護で、明治維新まで大名として生き残ったのは、島津家(鹿児島)と京極家(丸亀市)だけ。古代貴族の惟宗氏の出。近衛家の領地の島津荘(鹿児島県から宮崎県)の荘官として九州に転じた。島忠久が鎌倉時代の初めに薩摩国大隅国の守護となって勢力をもった。【家紋:丸に十字】明治維新後には公爵島津久光の家紋

・ 薩摩国・大隅国の戦国大名。「島津家譜」によると、祖の島津忠久は源頼朝と丹後局との間に生まれた子となっているが、実際には近衛家領の島津荘の下司を務めた惟宗広信の子である。忠久は1185年に伊勢国須可荘(三重県)の地頭と島津荘の下司となり、翌年には信濃国でも地頭職を得た。鎌倉幕府の成立後、1197年には薩摩と大隅の守護となり、後に日向の守護も兼ねた。さらに信濃、越前、伊賀、讃岐などにも所領を得て御家人として活躍。1275年に三代久経の時に幕命で薩摩に下向した。南北朝時代には北朝に属し、貞久は三男の師久に薩摩の守護を、四男の氏久に大隅の守護を譲り、師久の子孫は総州家、氏久の子孫は奥州家を称した。嫡流の奥州家は室町時代には少弐氏大友氏とともに九州を三分したが、中期以降は総州家との内訌によって勢力が衰えた。1430年には総州家の久林を日向国で滅ぼしたものの、今度は奥州家の中で、薩州家の実久と相州家の忠良が争った。
忠良は弱体化していた本家(守護家)を支え、1526年に嫡男の貴久に本家を継承させた。貴久は一族を統一して薩摩・大隅・日向の三国を支配した。子の義久は1578年に豊後の大友氏、1581年に肥後の相良氏、1584年に肥前の龍造寺氏を降して九州の大半を制覇したものの、1587年に豊臣秀吉に敗れて、薩摩・大隅二国と日向国の一部に戻った。関ヶ原の戦いでは義弘はわずかの手勢を率いて西軍に属したが、戦わずして敗れ、戦後敵陣を突破して帰国。義弘の所領は没収されたが、義久に安堵された。徳川幕府成立後も引き続き薩摩72万石余りを領した。【出典

・ 薩摩藩主。戦国大名島津氏の子孫。関ヶ原の戦いで敗れて薩摩・大隅・日向南部に逼塞した後、1609年には琉球に侵攻して征服し、以後実質的に属国とした。島津家には分家が多く、江戸時代薩摩藩の重臣の多くは島津氏一門で固めていた。幕末に、島津斉彬は藩政を改革して殖産興業に成功し、また西郷隆盛大久保利通ら有能な下級藩士を多数登用した。その死後、弟の久光は藩主忠義と共に、藩論を倒幕に統一し、長州や土佐と共に幕府を倒して新政府を樹立させた。1884年に当主の島津忠義と、新たに玉里家を興した久光がそれぞれ公爵を賜り、市藩の佐土原藩主の島津家も伯爵となった他、一門十家が男爵となった。【出典

# 鹿児島県の島津家: 垂水島津家。

# 鹿児島県の島津家: 宮之城島津家。 

# 鹿児島県の島津家: 日置島津家。

# 鹿児島県の島津家: 重富島津家。播磨の島津氏末裔

# 鹿児島県の島津家: 加治木島津家。

# 鹿児島県の島津家: 今和泉島津家。

# 鹿児島県の島津家: 知覧島津家。 

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