黒田長政
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■ 黒田長政(くろだながまさ): 「黒田」の名字の由来

# 長政は石田三成と折り合いが悪かったため、秀吉の死後は家康に近づいた。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、筑前52万石を与えられた。

# 福岡藩主。黒田長政は、福岡発展の基礎を築いた。52万石の福岡藩の初代藩主。永禄11年(1568年)に生まれ、父は軍師の黒田官兵衛(孝高・よしたか)である。父に似て、軍略の才に恵まれたが、福岡藩主になってからは領内の産業振興や新田開発に尽力した。博多には、楽市楽座を開設したほかに、博多人形や博多織、高取焼きなどの伝統工芸を奨励した。また、広い穀倉地帯をかかえ、米作や、その販路の整備にも尽力した。【出典

# 黒田長政(くろだながまさ)【出典

・ 1568−1623年。享年56歳(病死)。

・ 出身地: 播磨国

・ 肩書き: 武将。

・ 家族: 父:黒田孝高

・ 家紋: 黒田巴藤紋

・ 豊臣秀吉の軍師の黒田孝高の長男。黒田長政は父と同様にキリシタン大名で、もとは織田信長に仕えた。1578年に父の孝高が、信長に謀反を起こした荒木村重を説得するために有岡城に赴いて、逆に捕縛されて幽閉された。なかなか戻らない孝高が村重に寝返ったと思った信長は、羽柴秀吉に子の長政の処刑を命じたが、竹中重治の機転で救われた。

■ 黒田忠之(くろだただゆき): 福岡藩主。福岡藩主の黒田長政の子。22歳で福岡藩主になったが、幕法違反をする忠之に栗田大膳が諫言し、対立した。忠之は遊び好きでもあり、大膳の諫言に立腹して領地を没収した。【出典


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