「長宗我部・長曽我部」の名字の由来
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■ 長宗我部(ちょうそかべ)

【2021/02/08:改編】

# 66327位

# 全国に約20人。

# 名字を作った名字の代表例

# 秦(はた)氏の出

# 代表家紋

# 長宗我部氏: 七つ片喰紋。渡来系の古代豪族の秦氏の出と、在地豪族の出の説がある。支流には、「吉良」「香川」「津野」などがある。【あなたの起源を読み解く 名字の世界 インデックス編集部 イースト新書Q】

# 愛媛県松山市付近や宮崎県日向市、広島県呉市付近にみられる。

# 長宗我部。鎌倉時代のはじめに能俊が信濃国から土佐国宗部(そかべ)郷に移り住んだ。

# 土佐国長岡郡宗我部郷(高知県南国市)をルーツとする。

・ 宗我部郷は「長岡郡」と「香美(かみ)郡」にまたがっており、長岡郡の部分を領して「長宗我部」を名乗った。また、香美郡の部分を領した中原氏の一族は「香宗我部」を名乗り、一族は東北に移り住んで伊達家に仕えた。

# 土佐国を領した戦国大名で渡来人の古代氏族の秦氏末裔か、地元の豪族の出身か諸説あるようです。1584年に四国を統一したが、羽柴秀吉の四国征伐で衰退し、関ヶ原の戦いでは西軍についたために改易となった。

# 長宗我部から派生した名字には「吉良」「香川」「津野」などがある。

# 高知県の長宗我部家: 土佐国長岡郡宗部郷(高知県南国市)をルーツとし、渡来系の古代豪族秦氏の子孫を称す。戦国時代には四国有数の大名となったが、関ケ原の戦い後に衰退した。一族は島家の名で続いた。

・ 土佐国の戦国大名。「長曾我部」とも書く。鎌倉時代初期に秦能俊が土佐国長岡郡宗部郷(高知県南国市)に転じ、香美郡宗部郷と区別するために長宗我部氏を称した。鎌倉時代は地頭となって周辺に多くの庶子家を派出、岡豊城を中心に総領支配を築いた。1508年に兼序は本山氏、山田氏、吉良氏、大平氏の連合軍に攻められて戦死、子の国親は中村の一条氏のもとに逃れた。1518年に岡豊城に戻り、子の元親のときに土佐一国を統一した。さらに、阿波の海部氏、讃岐の十河氏、伊予の河野氏を降して四国全体も支配。津野氏、吉良氏、香宗我部氏などの国内の主要豪族や、讃岐の香川氏なども縁組みによって一族に取り込んだ。1585年に豊臣秀吉に敗れて再び土佐一国の領主に戻された。関ヶ原合戦で盛親は西軍に属し、さらに内紛もあって改易され。その後、盛親は大坂陣で豊臣方に属して六条河原で斬られて滅亡した。【出典

# 長宗我部: 秦河勝が信濃国に了知を賜り、子の秦広国を信濃国に派遣した。後に、信濃国更級郡に住んでいた子孫の秦能俊が土佐に転じて長宗我部氏となった。【「系図」を知ると日本史の謎が解ける 八幡和郎 青春出版社】

# 長宗我部元親の弟の親房の子孫は島氏と改姓し、明治維新後に長宗我部に復姓した。【名字でたどる日本の名家 森岡浩 日本実業出版社】

# 長宗我部家(ちょうそかべけ): 家紋「丸に七つ片喰紋」

・ 土佐国長岡郡岡豊(高知県南国市岡豊町)を本拠地とした。

・ 土佐国の国人の出。出自は諸説あるが渡来系の秦氏の出という説が強い。

・ 土佐国長岡郡宗部郷(宗我部郷)をルーツとする。

・ 長宗我部元親は1585年に四国統一を果たしたが、羽柴秀吉に敗れ、土佐一国に領地を減らされ、関ヶ原の戦いでは西軍に属し領地を召し上げられた。【戦国大名「御家」系譜事典 宝島社 監修:森岡浩】

■ 長曽我部(ちょうそかべ) 

【2022/01/24:新載】

# 長宗我部から転訛した名字で、現在は愛媛県松山市付近や、宮崎県日向市、広島県呉市などに多く見られる。【出典

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