「有馬」の名字の由来
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■ 有馬(ありま)

【2021/10/15:改編】

# 代表家紋

# 地名姓。

# 鹿児島県の特に鹿児島市周辺に多い。

# 肥前国の有馬氏は肥前国高来郡有馬荘(長崎県南島原市)をルーツとし、藤原北家秀郷流で藤原純友の子孫と言われるが、肥前藤津荘の荘司だった平氏の末裔らしい。鎌倉時代に平経澄が有馬荘の地頭となって有馬氏を称した。戦国時代には豊臣秀吉に従い、関ヶ原の戦いでは東軍に属して本領を安堵された。しかし、慶長17年(1612年)に岡本大八事件で甲斐に流された。その子の直純は徳川家康の縁戚であったので、相続を許されのちに越前国の丸岡藩5万石。明治維新には子爵

# 摂津国の有馬氏は摂津国有馬郡有馬荘(兵庫県神戸市兵庫区)をルーツとし、赤松氏の一族。豊臣秀吉に仕え、後に筑後久留米藩主(21万石)。【家紋:右三つ巴紋】明治維新後は伯爵
・ 下野国の吹上藩の有馬家(1万石)は分家。

# 薩摩の有馬氏は肥前国高来郡有馬荘(長崎県南島原市)をルーツとするが、清和源氏足利氏の支流。

# 紀伊の有馬氏は紀伊国牟婁郡有馬(三重県熊野市)をルーツとする。平安時代に新宮の榎本氏の一族が有馬に住んで有馬氏を称した。

# 栃木県の有馬家: 下野国吹上藩主摂津国有馬家と同族で、久留米藩主の有馬家の分家。【出典】 

・ 下野国吹上藩(栃木県栃木市)藩主。筑後国の久留米藩主の有馬豊氏の三男の頼次は徳川忠長に仕えていたが、忠長が失脚した際に連座。その後、外孫の吉政が家を継ぎ、紀州藩主の徳川頼宣に仕えたのが祖。氏倫の時に藩主の吉宗の側衆となり、吉宗の将軍就任に伴って旗本に転じ、後に伊勢国西条藩を立藩。本家が外様大名であるのに対し、この家は譜代大名とされた。1781年に氏恕が上総国の五井に本拠を移して五井藩主となり、1842年に氏郁のとき、下野国吹上1万石に転じた。明治時代には子爵。【出典

# 福井県の有馬家: 丸岡城主の有馬家は島原のキリシタン大名の有馬家の子孫。 この有馬家は赤松氏の一族で有馬温泉に由来する。  

・ 丸岡藩(福井県坂井市)藩主。肥前の有馬氏の末裔。晴信は関ヶ原の合戦では東軍に属して本領を安堵されたが、1612年の岡本大八事件で甲斐国に流された。子の直純は家康の養女を妻としていた関係で相続をゆるされ、キリシタンの過酷な取締を行った。1614年に日向国県(宮崎県延岡市)に転封したが、清純のときに農民の逃散などがあり、1691年に3000石を減らされて糸魚川に転封。1695年に越前国坂井郡などで5万石を領し、丸岡を築城した。1884年には子爵。【出典

# 福岡県の有馬家: 筑後国久留米藩(21万石)主。有馬頼寧は昭和時代に農林大臣をつとめ、日本中央競馬会の理事長も務めた。有馬記念レースはこれに由来する。

・ 久留米藩主有馬家赤松氏の一族で、兵庫県の有馬温泉の出。関ヶ原の戦いの後に有馬豊氏は福知山城主、有馬則頼は摂津三田城主。豊氏の子の忠頼は大阪の陣の功により久留米21万石。

・ 村上源氏赤松氏の支流。播磨出身の有馬則頼が豊臣秀吉の近臣として仕え大名となった。【出典

・ 久留米藩主摂津国有馬郡有馬荘(兵庫県神戸市兵庫区)をルーツとし、赤松氏の一族。赤松義祐が有馬荘の地頭となり有馬氏を称した。豊臣秀吉の時代に播磨国三木に転じ、関ヶ原の合戦では有馬則頼が東軍に属し摂津国三田2万石。則頼の子の豊か氏は豊臣秀次の家老の渡瀬家に仕えていたが、渡瀬家が失脚後、遺領の遠江国横須賀3万石を継ぎ、関ヶ原の戦いの後には丹波国福知山6万石に転じ、後に久留米21万石。明治維新後は伯爵

・ 久留米藩主。摂津の戦国大名の有馬氏の庶流。則頼は関ヶ原の合戦で東軍に属し、1601年に摂津三田2万石に転じた。則頼の子の豊氏は1620年にみずからの所領と父の遺領を合わせて、筑後久留米21万石に転じた。久留米藩の七代藩主の頼?(よりゆき)は和算家として有名。
明治時代には伯爵。【出典

# 福岡県の有馬家: 久留米藩家老。もとは梶氏。一度断絶したが、一族が再興し豊前家を称した。  

・ 久留米藩の家老。梶重頼は有馬則頼に仕えてその娘を娶ったが、その後浪人。後に則頼の子の豊氏に仕えて家老となった。有馬姓をり、久留米入部後は8000石を領した。重頼の跡は孫の重之が継いで7000石を領したが、重之の孫の大蔵が8歳で死去したことからいったん断絶。一族の久米助が再興、豊前家を称した。重頼の二男の重次は5000石を領し、跡を継いだ甥の重長の末裔は代々久留米藩の家老として4000石を領した。【出典

# 長崎県の有馬家: 肥前国高来郡有間荘(長崎県南島原市)をルーツとする。藤原北家秀郷流。【出典】 

・ 肥前国の戦国大名。寛政譜では藤原北家秀郷流で藤原純友の子孫を称すが不詳。「長秋記」にみえる肥前藤津荘の庄司の平清澄・直澄の末裔とみられる。鎌倉時代に経澄が肥前国高来郡有馬荘(長崎県南島原市)の地頭となって有馬氏を称したのが祖で、南北朝時代には南朝に属し、戦国時代には晴純は高来・藤津・杵島の三郡を支配して全盛期を迎えた。義貞の頃から龍造寺氏が台頭して圧迫され、1576年には藤津郡で敗北して藤津・杵島両郡を失い、龍造寺氏と和睦した。1583年に晴信は龍造寺方の安富純治を攻めて島津氏に援軍を請い、翌年島津氏とともに島原で龍造寺氏を破っている。1587年の豊臣秀吉の九州入りで秀吉に従い、高来郡4万石を安堵された。晴信は関ヶ原の戦いでは東軍に属して本領を安堵されたが、1612年の岡本大八事件で甲斐に流された。子の直純は家康の養女を妻としていた関係で相続を許され、子孫は越前丸岡藩主となった。【出典

# 久留米藩 ・ 吹上藩 ・ 丸岡藩

# 有馬家

# 国衆(国人)

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