兵庫県内の「織田」の名字の詳細
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■ 織田(おだ): 兵庫県の織田家

# 丹波柏原藩主の織田家は織田信長末裔。織田家譜などによれば、壇ノ浦の合戦で自害した平資盛の妻は、幼児だった親真を抱いて近江国蒲生郡津田荘(滋賀県近江八幡市)に逃れ、のちにこの親真が越前国敦賀郡織田(福井県丹生郡越前町織田)の剱神社の神官の養子となって織田氏を称した。しかし、現在では平氏ではなく忌部氏の一族と言われる。【出典

# 織田荘の荘官をつとめた織田氏は守護斯波氏の家臣となり、斯波義重が尾張守護を兼ねると、守護代に抜擢されて尾張に転じた。やがて、岩倉城に拠って尾張上四郡を支配する嫡流の岩倉織田家(伊勢守家)と、清洲城に拠って尾張下四郡を支配した清洲織田家(大和守家)に分裂した。【出典

# 織田信長は、清洲織田家の家老で勝幡城(愛西市)を本拠とした勝幡織田家の出。信長の二男の信雄は、清洲会議の後、尾張・伊賀・南伊勢を領したが、1590年に秀吉から、三河・遠江・駿河への移封を拒否して下野国烏山に配流された。1615年に、大和松山藩5万石を立藩。1695年に丹波柏原2万石に減封の上転封となった。明治時代には子爵。【出典

# 兵庫県の織田家: 丹波柏原藩(兵庫県丹波市)藩主。織田信長の二男の信雄の子孫。信雄は1590年の小田原攻めの後に、秀吉から三河・遠江・駿河への移封を命じられたが、これを拒んで下野烏山に配流された。後に徳川家康の斡旋で許されたものの、関ヶ原の合戦には参加しなかった。そして、1615年に大和国・上野国で5万石を与えられ、大和松山藩5万石を立藩。五男の高長(信友)が大和の3万石を継いだ。四代信武は家老二人を惨殺、さらに発狂して1695年に自害したため、丹波柏原藩2万石へ減転となった。明治時代には子爵。【出典】 

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