群馬県内の「土岐」の名字の詳細
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■ 土岐(とき): 群馬県の土岐家

# 沼田藩主の名字。土岐氏の一族で、美濃国土岐郡明智に住んで、明智氏を称していたが天文年間に土岐頼芸と斎藤道三との合戦で定明が討ち死にしたため、幼少の定政は母方の親類を頼って三河国に逃れ、母方の叔父の菅沼定仙のもとで成長した。明智光秀と同族であることをはばかって一時菅沼姓を名乗ったのち、土岐姓に復して徳川家康に仕えたのが祖。1590年の家康の関東入国ののち、下総国相馬郡に1万石を賜り、守谷に住んだ。子の定義は摂津高槻(大阪府高槻市)2万石へ転じ、子孫は出羽国上山2万5000石、駿河田中3万5000石を経て、五代頼稔が1742年に上野沼田3万5000石に転じた。明治時代には子爵。【出典

# 沼田藩主の頼殷の次男の頼郷は1721年に3500石を分知されて、旗本になった。【出典

# 現在、群馬県内には少ない。【出典

# 群馬県の土岐家: 沼田藩主戦国大名土岐氏の一族。土岐郡明智に住んで明智氏を称していた。本能寺の変後、明智の名字をはばかって一時菅沼を名乗り、その後土岐に復し徳川家に仕えた。

・ 上野国沼田藩(3万5千石)の土岐家。沼田はもともとは真田家の領地。後に美濃の土岐氏の一族が来た。  

・ 群馬県の土岐家: 沼田藩主土岐氏の一族で、美濃国土岐郡明智に住んで明智氏を称していたが、天文年間に土岐頼芸と斎藤道三との合戦で明智定明が討ち死にしたため、幼少の定政が母親の親戚を頼って三河国に逃れ、母方の叔父の菅沼定仙のもとで成長した。定政は明智光秀の同族であることをはばかって、一時菅沼定政と名乗ったが、土岐氏に復姓し徳川家康に仕えた。家康の関東入国後、下総国相馬郡で1万石。その後、摂津国高槻2万石、出羽国上山2万5千石、駿河国田中3万5千石を経て上野国沼田3万5千石へ。明治時代には子爵。【出典

・ 沼田藩主。美濃の土岐氏の一族で土岐郡明智に住んで明智氏を称していたが、定明が討ち死にしたため、幼少の定政は母方の親類を頼って三河国に逃れ、母方の叔父の菅沼定仙の下で成長した。明智光秀と同族であることをはばかって一時菅沼氏を名乗った後、土岐氏に復して徳川家康に仕えたのが祖。1590年の関東入国の後に下総国相馬郡に1万石を賜り、守谷に住む。子の定義は摂津高槻(大阪府高槻市)で2万石に転じ、子孫は出羽上山2万5000石、駿河田中3万5000石を経て、五代頼稔の1742年に上野沼田3万5000石に入封した。明治時代には子爵。【出典】 

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