岐阜県内の「土岐」の名字の詳細
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■ 土岐(とき): 岐阜県の土岐家 

# 岐阜県の土岐家: 美濃国土岐郷(岐阜県瑞浪市)をルーツとする。清和源氏の出で、土岐光信が祖。鎌倉時代には御家人となった。【出典】  

・ 美濃国の大名。清和源氏の出で、源光国の子の光信の頃から美濃国土岐郡土岐郷(岐阜県瑞浪市土岐町)を領して土岐氏を称したというが、実際は土岐に土着したのは光信の孫の光衝ともいう。光衡の長男の光行・光時はいずれも浅野氏を称し、承久の乱では光行は幕府方、光時は宮方に属した。光時の跡は五男の光定が惣領となって、再び土岐氏を称し、執権北条貞時の女婿となった。しかし、足利尊氏に従って倒幕に参加、建武政権では美濃国の守護となって、以後守護を独占した。美濃国内に広がった一族の数は多く、百家を超えるといわれる。室町時代、頼康は美濃・尾張・伊勢の三カ国の守護を務めたが、1387年の頼康の死去に際して、その遺領の相続に将軍義満が介入、惣領康行と弟の満貞が合戦となったところで幕府の追討をうけて没落、美濃の守護は庶流の池田頼忠(頼世)が継いだ。以後、頼忠が土岐氏の嫡流となって土岐氏を称し、孫の持益の代には守護代として起用した斎藤氏が台頭した。応仁の乱では成頼は西軍に参加、守護代の斎藤妙椿が活躍。子の政房は守護代の斎藤利国と結んで実弟の元親を討ち、父の成頼を廃して守護となった。その後も1517年に頼武が守護代の斎藤利良と結んで祖父の政房を隠居させたが、弟の頼芸との戦いに敗れて越前国に亡命。以後内乱が続き、頼純が守護代の斎藤道三と結んで守護の座に着いた。しかし、1年後の1527年には頼純が急死(毒殺説もある)、頼芸が守護についた。このすきを縫って台頭した斎藤道三によって1552年に頼芸は美濃国を奪われ、事実上土岐氏は滅亡した。【出典

# 岐阜県の土岐家: 美濃国戦国大名。美濃国土岐郡土岐郷(岐阜県瑞浪市土岐町)をルーツとし、清和源氏の出。源光国の子の光信が土岐氏を称したというが諸説あるそうだ。鎌倉時代には御家人となり、後に美濃の守護となった。南北朝時代には北朝に属した。天文21年(1552年)斎藤道三によって滅ぼされた。一族は、後に豊臣秀吉から徳川家康に仕え江戸時代には高家に列せられた。【出典

# 岐阜県の土岐家: 美濃の土岐氏の一族で美濃国土岐郡明智に住んで明智氏を称していたが、天文年間斎藤道三から攻められ三河国に逃れた。後に、明智光秀の同族であることをはばかって菅沼を称したが、後に復姓し徳川家康に仕えた。家康が関東入国の際には下総国相馬郡で1万石。その後摂津国高槻2万石から、上野国沼田3万5千石。【出典】 

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