「一条」の名字の由来
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■ 【摂家】 藤原鎌足九条家から分かれた。五摂家の一つ。

■ 一条(いちじょう) 

【2023/07/10:改編】

# 公家の名字

# 代表家紋

# 五摂家の一家で、関白藤原実経が京都の屋敷の地に由来して一条氏を称した。後裔の兼良(かねら)は室町時代の学者としても有名。兼良の子の教房は土佐国幡多郡畑本荘の所領に下向し、その子の房家は土佐中村の御所にあって土佐一条家の祖となった。後裔は公家大名で武将としても活躍したが長曽我部氏に滅ぼされた。他流では甲斐国に武田氏族が、伊予国に河野一族がある。また、豊前国・肥後国の豪族などにみられる。代表家紋は「下り藤紋」「割り菱紋」。【出典】【家紋のデータ

# 甲斐国武田氏の一族。武田信義の二男の忠頼が一条氏を称し、源頼朝の挙兵に際しては甲斐源氏を率いて参陣した。しかし、源義仲と通じたと疑われて元暦元年(1184年)に源頼朝の意を受けた天野遠景によって謀殺された。甥の信長が跡を継いで、以後代々武田氏に仕えた。信長の孫の時信は甲斐国の守護もつとめた。戦国時代には武田信玄の異母弟の信龍が継いだが、天正10年(1582年)に徳川家康に敗れて子の信就とともに斬られて滅亡した。【出典

# 甲斐国の武田氏の一族。甲斐国山梨郡一条(山梨県甲府市)発祥。武田信義の二男の忠頼が一条氏を称し、源頼朝の挙兵に際しては甲斐源氏を率いて参陣した。しかし、義仲と通じたと疑われて元暦元年(1184年)に源頼朝の意を受けた天野遠景によって謀殺された。甥の信長が跡を継ぎ、以後代々武田氏に仕えた。信長の孫の時信は甲斐国の守護も務めた。戦国時代には武田信玄の異母弟の信龍が継いだが、天正10年(1582年)に徳川家康に敗れて子の信就とともに斬られ、滅亡した。【出典

# 南部藩士の一条氏は甲斐一条氏の庶流という。【出典

# 京都府の一条家

# 高知県の一条家

# 一条(いちじょう): 福岡県筑後市一条。広川山地の末端と長峰丘陵(八女(やめ)丘陵)の間にひらけ、広川が大きく北へ迂回する南側に位置する。地名の由来は、条里制の名残といわれている。中世には勢得名の一部であったといわれる。人形原には国史跡の石人山古墳(前方後円墳)があり、南屋敷は戦国期の一条和泉守の館跡といわれている。【出典

# 一条家

# 「条」のつく名字

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