源義仲
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■ 源義仲(みなもとのよしなか)【出典

・ 1154−1184年。享年31歳(討ち死)。

・ 出身地: 武蔵国(埼玉県)。

・ 肩書き: 武将。

・ 家族: 父:源義賢。

・ 以仁王から平家討伐の令旨(りょうじ)を受けて、最初に上洛したのが源義仲(木曽義仲)である。27歳だった義仲は、木曽谷で挙兵した。越後国平氏の出の城長茂を横田河原で破った勢いで、1183年には平維盛軍を倶利伽羅峠で破った。その後、入京した義仲は平家を追い落として、後白河法皇から左馬頭・越後守に任ぜられ、「朝日(旭)将軍」に称された。しかし、当時の京は飢饉続きで食糧難に見舞われていた。遠征してきた義仲軍たちへの歯止めがきかず、兵による乱暴狼藉・略奪行為が横行した。また、皇位継承問題に朝廷の諸事情に疎い義仲が口だししたために、義仲の評判は急落して、後白河法皇から疎んじられた。その後、都落ちした平家が勢力を盛り返して、再び京に迫る勢いだったため、義仲は名誉挽回のために出撃した。しかし、備中国の水島の戦いで大敗を喫した。京に戻った義仲を、後白河法皇を見捨て、源頼朝の上洛を要請した。これを不服に思った義仲と法皇の間の関係は悪化して、また頼朝とも決裂した。義仲は、法皇を襲撃して、一時は法皇を幽閉したが、1184年に頼朝の命を受けた源義経源範頼軍と、京の宇治川、近江国瀬田で対戦して敗北した。その後、近江国の粟津の戦いで討ち死にした。


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