山形県の歴史
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山形県の戦国史  
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★ 参考データ集

・ 山形県の県名の由来と県民性

・ 山形県内の地名の由来

・ 山形県らしい名字


■ 山形県の県域は、古代の出羽国の南部に位置します。
# 出羽国ができたのは和銅5年(712年)。越後国の出羽(いでは)郡が独立して出羽国ができて、陸奥国から置賜郡と最上郡がこれに合わさった。最上郡は仁和2年(886年)に最上郡、村山郡に分かれた。
# 出羽(でわ)=「いでは」=出端(ではな)。
# 「うきたむ」。アイヌ語では「広い葦の生えている谷」を意味し、「置賜」の語源。

■ 一万年以上続いた縄文時代の中心は東日本、それも東北地方が中心だった。

■ 米沢盆地の東北部に「大谷地(おおやち)」と言われる白竜湖低湿地帯が広がっていた。

■ 大化3年(647年)に渟足柵(ぬたりのき)が、大化4年(648年)に磐舟柵(いわふねのき)が設置された。新潟県域。

■ 斉明天皇4年(658年)に越国守の阿倍比羅夫が180艘の水軍で日本海を北上し、秋田、能代、男鹿を平定。
# 日本書紀に、「越(こし)の辺(ほとり)の蝦夷数千が内附した」という記録がある。

■ 平安時代には山形県域に12の荘園があり、遊佐荘園が一番北にあった。

■ 源頼朝と奥州藤原氏の奥州合戦は、鼠ケ関(山形県鶴岡市・旧温海町の戦いで幕を開ける。
・ 幕府の北陸道軍である比企能員(ひきよしかず)宇佐美実政(うさみさねまさ)対田川氏、秋田氏由利氏の在地領主。奥羽は鎌倉幕府の支配下におかれ、幕府の御家人が奥州の地頭として送り込まれた。置賜地方には大江氏池上氏、(今の)村山地方には安達氏二階堂氏中条氏、庄内地方には武藤氏などが入った。
・ 幕府の東海道軍は千葉常胤(ちばつねたね)や八田知家(はったともいえ)。
・ 大江広元: 成島荘(米沢市)、屋代荘(東置賜郡)、北条荘(南陽市)と寒河江荘(寒河江市)の地頭。寒河江荘は嫡男の親広(ちかひろ)が、成島荘・屋代荘・北条荘は次男の時広に始まる長井氏が継いだ。
・ 村山地方(当時の最上地方)の大曽禰荘(山形市)の地頭には上野国を本領とする安達盛長がついた。成生荘(天童市)の地頭には二階堂氏。山辺荘(東村山郡)や大山荘(山形市南部)の地頭は不明だが、鎌倉時代末期には北条氏領となった。小田島荘(東根市)の地頭は中条氏で鎌倉時代末期には北条氏領となり、南北朝時代以降は結城氏の支配下となった。
・ 庄内地方の大泉荘(田川郡)や海辺荘(酒田市周辺)の地頭武蔵国を本領とする武藤氏

■ 出羽三山とは当初は「月山」「羽黒山」「葉山」だったが、室町時代末期に「葉山」に代わって「湯殿山」が加わった。なんでだろう?

■ 元弘3年(1333年)の鎌倉幕府滅亡後、出羽守・秋田城介として、後醍醐天皇の側近の葉室光顕(みつあき)が赴任した。
・ 南朝では北畠顕家が陸奥守・鎮守府将軍として奥羽支配を図り、足利勢では斯波家長や石堂義房らを奥州総大将に任じた。
・ 暦応元年(1338年)に北畠顕家が死去後、奥羽における南朝勢力は衰退し、足利尊氏が奥州管領に任じた吉良貞家や畠山国氏が奥羽を支配した。その後、斯波家兼(家長の叔父)が尊氏によって奥州管領として送り込まれ、家兼は出羽国の掌握のため次男の斯波兼頼を羽州管領として出羽国最上郡(現在の村山郡)に派遣した。
・ 延文元年(1356年)に山形に入部した兼頼は一族を大山荘や成生荘に配置した。
・ 成生荘や北寒河江荘の中条(ちゅうじょう)氏や小田島荘の地頭結城氏は北朝だったが、小田島荘の小田島氏や山形の山家氏は南朝だった。また成生荘の地頭は里見氏で兼頼は里見氏や山家氏と姻戚関係を結んだ。
・ 漆川(大江町)で斯波軍に大敗した大江氏はこれを機に寒河江氏を名乗った。
・ 大江氏を破った斯波氏は、最上氏を称し、天童、高擶、蟹沢、泉出(山形市)、黒川(宮城県)、中野大窪楯岡上山に一族を配した。
・ 常陸国伊佐荘中村(茨城県下館市)の在地領主の伊佐氏は奥州合戦のコウで陸奥国伊達郡の地頭となり伊達氏を称した。
・ 1380年頃、伊達氏出羽国置賜郡に進出し、長井氏を討って家臣の石田左京亮に長井荘鴇谷郷(ときやのごう)を与えた。また萩生郷を家臣の国分(こくぶん)光信に与えた。

■ 学童疎開
太平洋戦争末期、比較的安全で食料が豊富な山形県に多くの疎開者が来た。昭和19年6月30日に「学童疎開促進要綱」が閣議決定され、縁故疎開が困難な国民学校初等科の3〜6年生の児童に対して集団疎開が実施された。疎開先は東京都の郡部、埼玉や北関東、宮城、福島などが指定され、山形県には東京の城東区(江東区)・江戸川区・豊島区の学童12,000名の受け入れが割り当てられた。後に5,000名が追加。城東区の児童8,800人は米沢市をはじめとした置賜地方や山形市・東村山郡・東田川郡へ、江戸川区の3,200人は北村山郡・飽海郡・酒田市鶴岡市などへ。また豊島区からは約1,200人が山形市や寒河江市東根市へ。


【参考データ】

■ 大曽根(おおそね): 埼玉県八潮市大曽根。県南東部、綾瀬(あやせ)川左岸の沖積地に位置し、集落が自然堤防上にある。地名は、曽根に砂・石を局地的に有するやせ地の意があるため、綾瀬川沿いの大きなやせ地を意味するものと思われる。【出典

■ 大曽禰荘(おおそねのしょう): 山形県山形市上反田

■ 大山荘(おおやまのしょう): 山形県山形市南部から上山市にかけて。平安時代から南北朝期にかけて出羽国最上郡にみられた荘園名。「和名抄」に見える古代最上郡の大山郷あるいは山方郷の地域にあたるものと思われる。【出典

■ 寒河江(さがえ): 山形県寒河江市

■ 長井荘(ながいのしょう): 山形県長井市

■ 成島荘(なるしまのしょう): 平安時代後期から戦国期にかけて出羽国置賜郡にみられた荘園名。鎌倉期に当荘の地頭となったのは、長井(大江)氏であった。大江広元の次男時広に始まる長井氏は、広元から受けついだ成島荘・屋代荘・北条荘など置賜一円にわたる広大な所領を代々に伝えて南北朝期にまで及んだ。時広が長井氏を称したのは、その所領武蔵国長井荘にちなんだものというが、出羽国長井の地名によった可能性もなくはない。長井氏惣領家の系譜は、広元―時広―泰秀―時秀―宗秀―貞秀―挙冬―氏元と伝える。長井氏一門のなかで成島荘地頭職を相続したのは、宗秀―時千―時春の系統であった。【出典

■ 北条荘(ほうじょうのしょう): 南北朝期から戦国期にかけて出羽国置賜郡にみられた荘園名。古代置賜郡の北部を占める。建武年間、この地の地頭は池上藤内左衛門尉泰光であった。池上氏は相模国足柄下郡池上(現神奈川県小田原市大字池上)を本貫とする関東御家人と思われる。池上氏の所領は伊賀国常陸国などの諸国にも散在していた。建武政権樹立後、当荘の地頭職(一部か)は屋代荘(現高畠町米沢市)の場合と同じく、長井氏から没収され他氏に宛行われることになったと推定される。池上氏の所領はその時の宛行いによるものかと思われる。だが、長井氏の勢力は間もなく回復し、その支配は、南北朝末期にまで及ぶことになった。【出典

■ 屋代荘(やしろのしょう): 山形県の置賜地方の東半分。山形県東置賜郡高畠町に屋代小学校の名が残る。平安時代後期から戦国期にかけて出羽国置賜郡にみられる荘園名。安久津八幡神社は当荘の文化的中心地の一つであった。【出典


【主な参考資料】

・ あなたの知らない山形県の歴史 洋泉社

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