「山形」の地名の由来
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■ 山形県山形市

 山形の地名の由来は「山の近くの土地という意味」だそうで、蔵王山の麓に開けた街なのでそう呼ばれたとのことです。

 以下は自説ですが、山形はかつて中央から遠かった。山を越えないとたどり着けなかった。それを元に「山の彼方」→「山彼方」→「やまかた」となったのではないのかなとも思う。実際、他の県から山形県に入るときは、新潟、秋田からの海沿いのルートは別だが、すべて峠を越えないと入れないのである。 ちなみに、かつて山形市のシベール北店に「山彼方」というそば屋があり「やまがた」と読むようである。今は、それこそ「山の彼方」の宮城県に移転したようだ。

* 他説: 最上川上流を山の方、つまり山方と呼んだことから。今でこそ山形へのアプローチは宮城や福島からだが、昔は海路酒田を経由して最上川を遡った。その他には「山の潟」から「山潟(やまかた)」に転じたという説もある。いわゆる「藻が湖(もがうみ)」説に伴うものである。

 山形の語源は日本最初の辞典「和名抄」に、「山方郷(やまがたごう)」とかかれているのが初見で、龍山の西側山麓に開かれた現在の滝山地区一帯を指した由来がある。その後、斯波兼頼が山形盆地の中央部に山形城を築城。そのとき「山方」を「山形」に改名した。 → やはり、平地だと「山の方」ではおかしいし、いわゆる「形にはめる」という意味合いもあったのだろうか?

古代最上郡の郷名「山方(やまがた)」により、野方、里方に対して山の方という意味。

・ 山形市(やまがたし): 山形県山形市。古代最上郡の郷名「山方(やまがた)」による。野方、里方に対して山の方の意味。【都市データパック2011年版・東洋経済新報社】

・ 山方郷(やまがたのごう): 平安時代に出羽国最上郡にみられた郷名。「和名抄」にいう最上郡八郷の1つ。山方は、山の方の意味か。最上郡の南端、須川の上流域とその周辺の山里は、この山方の語意にふさわしい地域である。ほぼ、現在の上山(かみのやま)市に比定される。平安後期、山方郷を単位とする政治支配は終わり、さらに、当地域は大山荘の荘域に含まれた。しかし、郷の実態は消滅しても、山方の名は、中世に入っても用いられ、いつしか現在の山形市の付近を山方(山形)と称するようになったものとも思われる。【出典

・ 山形県の「山形」は、平安初期の資料「和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」に今の山形市の南側を「山方(やまがた)郷」と言ったことに由来があると言われています。なぜここを山方と言ったかは不明ですが、今の山形市より見て南のほうには、山岳信仰で知られた蔵王、瀧山(りゅうざん)の山々があります。そののちこの山方という地名は、いったん資料から見えなくなるのですが、南北朝時代に斯波兼頼が政治の拠点をこの地に置き政治が安定してくると、土地売買の文書などに山形という地名が改めて見えてくるようになります。【山形県のサイトより】

・ 「山のある方」という地名。「倭名抄」最上郡山形郷(現上山市付近)の移転地名説もあるが、疑問も多い。【出典

・ 「山方」。「山の手」の意味で、山に沿って開けたことを示す。【出典

# 山形: 江戸期の城下町名。山形藩領。はじめ最上氏領、元和8年から鳥居氏領、以後保科、松平、堀田氏と続き、弘化2年からは水野氏領。

・ 最上氏の築城以来町割りが行われ、さらに鳥居氏により町の拡張、馬見ケ崎川修築、街道整備などを通し山形城(霞城)の城下町として発達。

・ 町数は江戸期を通して30〜33町。郭内二の丸には藩重臣の屋敷が置かれた。

・ 元和年間の在町分限帳では町数31、屋敷数2、319軒半、検断41、人数1万9796。藩士を合わせると城下の人口は3万人近いと思われる。

・ 元禄年間では町数30、屋敷数2、507軒半、家数2、157軒、町中人数1万3232。【出典

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