「寒河江」の地名の由来
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■ 寒河江(さがえ): 山形県寒河江市 

# 平安時代に京都藤原家荘園として開かれた。相模の国寒川(さむかわ)からの移住者が寒河江周辺を郷里の寒川周辺と似ていたため「寒川」と呼び、河川が増水して入江になった名残で「寒河江」となった。

# これは難読地名の一つで、山形市の北西約15kmにあるサクランボで有名な町ですね。この寒河江という地名は単純に考えれば「寒い川のほとり」ということなのでしょうが。そもそも「サガ」は朝鮮由来の名で、「相模」「寒川」あたりに由来する地名と言われています。

※ 以上は、山形新聞社刊 やまがた地名伝説によるものだが、一方、「地名の秘密 そんな歴史があったのか」武光誠著では以下のように述べている。

# 鎌倉時代の始めに大江広元がこの地の地頭に任命され、彼が「寒河江」と名付けた。「さがえ」と言う地名は「さかえ」がなまったものと言われる。集落と集落を分ける川を「境川」と言うが、寒河江川は以前は境川だったと推測される。源頼朝に気にいられた学者だった大江広元は自分の領地に優雅な名前をつけようとした。その川は、京や鎌倉の川よりもはるかに寒かった。従って、「寒い河」に自分の名字の「江」の一字をつけて「寒河江」とした。広元の子孫でこの地を本拠地とした一族は「寒河江」を名乗ったが後に最上義光に滅ぼされる。また、子孫のうち安芸に移り住んだ一族は毛利を名乗った。

# 山形県の地名辞典(平凡社)によると、寒河江の地名は、関東地方の寒川農民が移民として入り、定住するようになり、その場所が入江が多かったため、はじめは「寒川の江」と呼び、後に「さがえ」と呼ぶようになった。【日本の中の朝鮮文化(12)陸奥・出羽ほか 金達寿 講談社】

# 延喜式の佐芸(さき)から転訛した。

# 毎春河川が雪解け水で満水となり、一面が大河のようになる所から。

※ だいぶ違うんだけどどっちが本当なのか?昔の話ってそういうもんなんだろうなぁ。

# 「さか(傾斜地)」+「え(川)」から転じたもので、「傾斜地の川」のこと。また、「さが(険しい地形)」+「え(川)」で「険しい谷を流れる川」のこと。【出典
※ 寒河江川が先なのか?それとも寒河江の地名が先なのか?

# 「さっかい(箸)」など、アイヌ語の残存地名というが、発音があわない。願望地名の「栄」の転か。古地図には「さか江」と濁っていない。また、寒河江川は古代の最上郡と村山郡をわける境川の意味にもとれる。【出典

# 寒河江(さがえ): 当地は鎌倉期に寒河江荘の地頭職となった大江広元以来、当地方の枢要の地となり、その後5代元顕の代に荘園支配のために内楯の城を拡大したといわれ、この頃寒河江城の原型が形造られたものと思われる。その後天正12年6月最上義光の侵略により寒河江大江氏は滅亡し、寒河江城は最上義光の長男義康・三男家親、のち寒河江光俊の手に渡った。なお古くは、寒河江川南岸の現在の寒河江市一帯を南寒河江、同じく北岸の現在の河北(かほく)町一帯を北寒河江と称したという。【出典
・ 寒河江荘(さがえのしょう): 平安時代後期から戦国期にかけて出羽国最上郡(今の村山郡)にみられた荘園名。鎌倉期当荘の地頭となったのは大江氏である。大江広元嫡子、親広に始まる寒河江大江氏の系統は、親広―広時―政広―元顕―元政―時茂―時氏と続き戦国期にまで及んだ。【出典

# 寒河江市(さがえし): 関東地方の「サムカワ」という地域からの開拓者集団が「寒川」と称し、入り江が多いことで「寒川の江」と呼ばれたからという説がある。【都市データパック2011年版・東洋経済新報社】

# 寒河江駅(さがええき): JR東日本・左沢線。山形県寒河江市本町。

# 「寒河江」の名字の由来

アイヌ語由来

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