「山形藩」転じて「蛇足の数々」
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■ 170209: 「山形藩」転じて「蛇足の数々」

 山形藩の藩祖は地元では有名な最上義光(よしあき)。立藩当時は57万石の大大名。

 江戸時代初頭で外様で50万石を超えた大名と言えば、加賀の前田家薩摩の島津家陸奥の伊達家くらいしか記憶に無い。そうか、出羽最上家陸奥の伊達家、この両外様大名、江戸の徳川家からみると邪魔だったろうねぇ。

 しかし、最上家は跡継ぎのゴタゴタで1622年に改易になった。江戸時代初頭はお取りつぶしも多かったですからねぇ。その跡継ぎ問題の一翼を担ったのが山野辺義忠(最上義光の四男)。この人はなかなか山形でも知る人は少ない。しかし、水戸黄門のドラマが好きな人なら思い当たるでしょう。

 水戸黄門の各シリーズの始まりの舞台は水戸藩内の黄門様の隠居所(西山荘)という設定が多いですね。ここから黄門様は助さんと格さんをお供に旅立つわけだが、もちろん密かに旅立つわけで、それを知ったお守り役で水戸藩の重臣の山野辺兵庫が地団駄踏むというのが定番。山野辺兵庫は、山野辺義忠の孫?なんですよねぇ。

 山野辺義忠は跡継ぎ問題のゴタゴタの責任をとらされ、備前国の岡山に流されていたが、1633年に徳川家光の命により水戸家に預けられ水戸藩家老となった。しかし、お取りつぶし時の後悔か、藩政には一切口出しはしなかったともいう。

 1622年に最上家がお取りつぶしになった後に山形に入封したのが鳥居忠政(22万石)。鳥居家は、関ヶ原の戦いの前哨戦の伏見の戦いで討ち死にした鳥居元忠を藩祖とします。鳥居の殿様は、圧政(厳格な検地や徴税)をやったりして、あまり評判はよくないとも聞きますが、最上家時代の田舎風のあいまいな藩政運営を正して、織田豊臣・徳川と続く尾張三河風の近代的な経営手法を導入して反感をかったのではないだろうか?今で言えば、トヨタ自動車の本社の部長が、東北地方の販売会社に出向して、経営改革を行って反感をかったみたいなものともいえる。

 さて、この鳥居の殿様の業績として忘れてならないのが、山形市内を流れる馬見ヶ崎川の改修(付け替え)工事である。その結果山形の城下町の洪水は改善されたという。もっとも、後世、長町地区が洪水地区となり明治時代にもなんどか洪水の記録はあるようだが。

 山形市は災害の少ない地と言われる。しかし、それは鳥居の殿様の馬見ヶ崎川の流路変更と後に作られた蔵王ダムのおかげと思うものである。そういう意味では現在の山形市に住む住民の一人としては、鳥居の殿様には「名君」の称号をあげましょう。あぁ、あくまでも個人の感想です(笑)

 馬見ヶ崎川が、旧県庁の文翔館の裏を西に流れていた痕跡は山形市内の地名にも残っている。相生町肴町江俣などがそうだろうか。そして昭和28年頃の地図をみると、「埋め立て地」という地名が残っている。護国神社から北東に延びる桜並木。その周辺である。つまり、旧河道を埋め立てた名残なんでしょう。

 鳥居家の跡には保科家が20万石で1636年に入封しました。保科家はもとは信濃国高遠藩。たしか3万石くらいだったかな?そこから山形に転じて20万石となったので、山形で藩士を追加採用したのでしょうかねぇ?最上家改易された後、浪人となった旧藩士は鳥居家庄内藩鶴岡藩)の酒井家に雇用されたと聞きますが、両藩あわせても約35万石。残りに約20万石分の浪人があぶれていたわけですから、保科家に再雇用された可能性は十分にあると思います。そうなれば、保科家の藩士の大半は最上家の旧家臣、つまり山形人ということになるか?ちなみに、保科家の保科正之は徳川二代将軍徳川秀忠の側室の子。さて、保科の名字の由来だが、信濃国高井郡保科(長野県長野市若穂町)をルーツとするとのこと。正之は三代将軍徳川家光に見いだされ高遠藩を嗣いだそうだ。当時、保科家には嫡子がいたそうだが、後に保科正之が山形から会津に転じ、その子孫が松平家を称した際に。保科家をついで千葉県の飯野藩主2万石として幕末を迎えた。話は戻るが、保科家は山形から会津に転じ、後に幕末の戊辰戦争の奥羽越列藩同盟の中核をなすわけだが、そのとき戦った会津藩士や白虎隊には山形のDNAが残っていたかもしれない。

 保科家が会津に転じた後は、 1644年に松平家(越前松平家・結城秀康の家系)15万石 、1648年に奥平家15万石 、1685年堀田家10万石 、1686年松平家(越前松平家)9万石 、1692年奥平家10万石 、1700年堀田家10万石 、1746年松平(大給)家6万石 とめまぐるしく変わった。俗には、譜代大名の左遷地という表現もあるようである。

 そして1767年に入封したのが秋元家。秋元の名字の由来は、上総国周准郡秋元郷(千葉県君津市)をルーツとする。ちなみに、先に亡くなった元横綱千代の富士の本名は秋元貢である、蛇足。この秋元家の時世は約80年に及び、江戸年間で一番長く藩主をつとめた家である。保科家以降の殿様の情報はほとんど持ち合わせていないが、この秋元家は、1845年に山形から上野国館林に転じた。館林といえば皆さんご存じのように、最高気温記録の保持者である山形市を抜いた群馬県の館林市。一説には(笑)、秋元家が山形にいた約80年間に蓄積した山形の暑さを、館林に持ち込んだとも言う。(誰が?それは私!)

 秋元家が館林に転じた後、1845年に水野家5万石が入封して幕末を迎えた。この水野家、天保の改革で有名な水野忠邦の家系ですねぇ。

 秋元家に代表?されるように、江戸時代の大名家の転封によって、人(藩士やその家族)や名字(藩士の名字)の移動をももたらした。その他に、文化の移動の担い手になったという話もありますね。その典型的な事例は、鳥居家が前任地である近江国水口の名産の「カンピョウ」を下野国壬生に持ち込んで、いまや「カンピョウ」と言えば栃木県ですね。それと、西日本は一般に「ウドン」文化と言いますが、兵庫県豊岡市出石町名物の「出石蕎麦」は信濃国上田藩主仙石家但馬国出石にお国替えになった時に持ち込んだもの と言われます。

 そうそう、山形県に「雪菜(ゆきな)」と言われる野菜があるが、この雪菜は直江兼継が越後から持ち込んだ「長岡菜」と米沢地元の「遠山かぶ」との交配種なのだそうだ。 また、山形も蕎麦どころですが、この蕎麦も保科正之信濃国から出羽国山形に転封された際に伝えたという話もある。

 このように、名字を追うこと、そして名字の由来となった地名を追うことは、日本文化を知る上で欠かせないものと言っても良いでしょう。仮に、最上家改易にならなければ、山形特有のガラパゴス文化が根付いていたいた可能性もある。えっ、それって今も実際にあるような?

 現在の日本文化の多くは室町時代に作られたとのいいますが、江戸時代にも現代につながる大きな文化の担い手になったものがあります。それが大名家の転封参勤交代とお伊勢参り。参勤交代やお伊勢参りによって、人の移動が活発化した。こういう流れは、聞くところによれば日本独特のもので、諸外国にはないとも聞きます。そのために現代でも、諸外国と異なる文化ができあがっています。

 その代表例が都市と鉄道。たとえば、欧州の鉄道番組を見ると、始発駅をでた列車は市街地を走り、まもなく車窓は田園風景となる。しかし、一方日本ではどうだろうか?たとえば東北本線で見ても、上野を発車した列車は都市圏の大宮を過ぎても沿道には延々と家並みがつらなる。そしていつのまにか宇都宮に着いちゃう。そんな光景が山間部を除いて延々と続くのである。そのため、日本の鉄道の駅間距離は海外に比べて短く、約4Kmが基準と言われた。

 4Kmといえば一里ですね。江戸時代の東海道をみても、移動は主に徒歩。約500Km弱に東海道に53の宿場があったわけだから、宿場間の距離は約10Km弱でおよそ二里ですねぇ。そして、宿場間には休息のための茶店もあった。茶店ができれば人も集まり集落ができる。そうして、かつては一里(約4Km)おきにあった大小の集落が、その後街道沿いにつながって現在の沿線となった。

 これは鉄道だけではなく道路もそうでしょう。東京から東北への主要国道も、昔の奥州(日光)街道がルーツですから、沿線のほとんどは市街地。とすれば信号も多いし、発進したり停止したりの繰り返し。しかし、欧州は鉄道でも述べたように信号の無い田園地帯が続く。聞くところによればクルマでの平均通勤距離はドイツでは約60Kmで、日本では約20Kmだそうだ。そうなれば、用途に合った交通機関ができてもあたりまえ。まぁ、個人的には欧州には「ディーゼル」が合うのだろうし、日本には「ハイブリッド」が合うんだろうねぇ。

 それは鉄道にも言える。日本は電車王国と言われ、世界中の電車の云十%は日本にあるという。駅間の短い人口密集地域においては電車の加速度の優位性がありますからねぇ。それに対して、大陸を中心とする駅間距離が長い路線では客車列車が多いですね。

 そうそう、話はかわりますが、数千キロを走るシベリア鉄道。電化区間でも今でも暖房は「石炭?」と聞いたことがある。電化区間では、まれに停電もある。その間暖房が使えないようでは、極寒のシベリアでは生死に関係する。こういったときに信頼性があるのは、意外に原始的とも言える「石炭ストーブ」などなんでしょう。

 2014年12月3日、山形と仙台を結ぶ仙山線の山間部で倒木による停電が発生。山形発仙台行きの快速列車(乗客約300人)が停車。停電で暖房が切れたため、JRでは使い捨てカイロや食料を届けたという事例があった。結構長時間閉じ込められていたように記憶しているが、12月初旬の山形だったからそれで済んだ。北海道の極寒地で同じようなことがおきたら大変だったねぇ。それを考えれば、北海道の過疎地では電車よりもディーゼルの方がいろんな意味で優位性があると思う。

 そして、クルマも同じ。市街地の短距離使用はともかくとして、山越えを含む冬の山形で電気自動車はちと不安。最近は省エネとかでライトもLED化されてることも多いが、冬場の凍結、融けません!エコ信号機もそうですが、意外に不便なところもあります。それにしても、LEDの信号機の着雪問題、地元の人なら設置前に想定できたろうしなぁ。

 「山形藩」に始まった「蛇足の数々」。今日はこれにてお終い。

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