「大石」の名字の由来 | |
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■ 大石(おおいし)
【2023/05/19:改編】
# 175位
# 170位【知っておきたい家紋と名字 別冊宝島】
# 代表家紋
# 地名姓で各地にみられる。
# 武蔵国の戦国大名。木曽義仲の子孫といい、信濃国小県郡大石(長野県東御市)発祥か。やがて、武蔵国に進出。室町時代には山内上杉氏に仕えて、武蔵国の守護代も務めた。武蔵国多摩郡二宮(東京都あきる野市)を本拠とした嫡流の遠江守家の他、葛西城(東京都葛飾区)に拠った石見守家がある。庶子の出とみられる定重は新座郡の柏の城(志木市)に拠って駿河守といわれ、子の道俊は椚田城(八王子市)に拠った。やがて多摩郡西部を支配して大石氏の本宗となり、定重は大永元年(1521年)に滝山城(八王子市高月町)を築いた。北条氏の勢力が武蔵国にも伸びてくると、定久は天文15年(1546年)に北条氏康に降った。定久の跡は女婿で北条氏康の三男の氏照が継ぎ、事実上北条氏によって所領を合併された。氏照は天正10年(1582年)頃に深沢山に八王子城を築いて転じ、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めで落城、のちに切腹して断絶した。定久の実子の定仲は氏照の旗下になって滝山衆に属し、北条氏の滅亡後には徳川家康に仕えた。石見守家は下総国の葛西城(東京都葛飾区)城主で、代々石見守を称した。【出典】
# 忠臣蔵の大石内蔵助の大石氏は近江国栗太郡大石荘(滋賀県大津市)をルーツとし藤原北家秀郷流。【「大石」の地名】
・ 大石内蔵助良雄: 赤穂藩の浅野家の家老。近江国栗太郡大石の出身で、曾祖父の良勝の時代に浅野家に仕え、1500石の家老となった。良は通字。
# 近江の大石家: 「本家」の他に「中家」「東家」「新家」の三つの分家があり、大石内蔵助は「東家」の子孫。
・ 織田信長と足利義昭が争った際、大石家は足利方につき、没落した。大石良勝の時代に江戸に出て、笠間藩主の浅野家に仕えて家老となった。大石内蔵助良雄は大石良勝の曾孫。
# 武蔵国の大石氏は木曾義仲の子孫と言われ信濃国小県郡大石(長野県東御市)をルーツとする。信濃国から武蔵国に進出し、南北朝時代には武蔵国の守護代もつとめた。後に山内上杉氏を経て北条氏に仕えた。
# 信濃の大石氏は信濃国小県郡大石(長野県東御市)をルーツとする。
# 駿河の大石氏は藤原氏の出。
# 仙台藩士の大石氏は陸奥国伊達郡東根大石(福島県)をルーツとする。
# 米沢藩の重臣の大石綱豊は上杉治憲(鷹山)に抜擢され藩政改革に取組13年の在籍中に藩の借金を返済した。
# 山形県の大石家
# 静岡県の大石家
# 日本近世史学者で東京学芸大学教授の大石学は東京都の出身。
# 赤穂浪士の大石家。大石内蔵助の妻のりくが、実家の豊岡藩の家老の石束(いしづか)家に身を寄せて、三男の大三郎が、後に、広島藩の浅野家に仕官して家を残した。
# 主なルーツ地
・ 近江国栗太郡大石荘(滋賀県大津市)をルーツとする。
・ 信濃国小県郡大石(長野県東御市)をルーツとする。
・ 陸奥国伊達郡東根大石(福島県)をルーツとする。
# 大石家(おおいしけ): 家紋「銀杏の二葉紋」
・ 武蔵国多摩郡滝山(東京都八王子市)を本拠地とした。
・ 清和源氏の義仲流。山内上杉氏に仕えた大石為重が木曽家教の三男の信重を婿養子にした。後に山内上杉氏の守護代となった。【戦国大名「御家」系譜事典 宝島社 監修:森岡浩】
# 国衆(国人)
# 古代豪族の大石氏
# 「大」のつく名字。
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