長野県内の「小笠原」の名字の詳細
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■ 小笠原(おがさわら): 長野県の小笠原家 

# 長野県の小笠原家: 清和源氏源義光の子孫。南北朝時代には小笠原貞宗が信濃国守護をつとめ、信濃に勢力をもった。戦国時代武田家に破れたが、後に徳川家に仕えた。【出典】 

・ 信濃国の守護大名。甲斐国巨摩郡小笠原(山梨県南アルプス市)をルーツとする。清和源氏の出。加賀美遠光の二男の長清が小笠原に住んで小笠原氏を称したのが祖。遠光は1185年に信濃守になった。長清は源頼朝に従って功をあげ、信濃国伴野荘(長野県)の地頭となり、後に阿波国の守護も務めた。以後、御家人として鎌倉幕府に仕え、伴野氏大井氏などの庶家を出したが、あまり発展せず、1285年の霜月騒動では伴野氏が北条氏によって誅された。建武新政では小笠原貞宗が信濃国の守護となって伊那郡伊賀良荘に転じ、南北朝時代には、本拠地を筑摩郡井川(長野県松本市)に遷した。代々、信濃国の守護となるが、国人層の反発も大きく、1400年には長秀の守護を拒否する国衆達との間で大塔合戦を引き起こし敗北した。1416年に守護となった政康によって領国経営が進むが、1442年に政康が死去すると、内訌によって深志・伊那鈴岡・松尾の三家に分裂。1493年に松尾家が鈴岡家を滅ぼして、以後深志・松尾の二家となった。室町時代には全国に20ヶ所の所領を持ち、一族は各地に広がった。子孫は小倉藩主など大名五家を数える。【出典

# 長野県の小笠原家: 交代寄合伊豆木小笠原家。松尾小笠原家の末裔。1600年に長巨が1000石を与えられて旗本となり、信濃国伊那郡伊豆木(長野県飯田市伊豆木)に陣屋をおいて交代寄合となった。【出典

# 愛知県の小笠原家: 尾張藩の重臣。【出典】 

# 長野県の小笠原氏: 信濃国戦国大名清和源氏の出。加賀美遠光の二男の長清が甲斐国巨摩郡小笠原(山梨県南アルプス市)に住んで小笠原氏を称した。長清は源頼朝に従って功を成し信濃国伴野荘(長野県)の地頭となり、後に阿波国守護も務めた。【出典

・ 深志家: 小笠原氏の嫡流で府中小笠原氏ともいう。天文19年(1550年)に武田信玄によって信濃から追われ、小笠原貞慶は織田信長に仕え、後に徳川家康に仕え、1589年に旧領を回復した。家康の関東入国に際しては下総国古河3万石を賜り、関ヶ原の戦いの後には信濃国の飯田藩5万石から松本8万石。播磨国の明石藩10万石を経て1632年に豊前国の小倉藩15万石。【出典

・ 松尾家: 松尾家は小笠原政康の子の宗康・光康兄弟が持長と争って府中を去り、信濃国伊奈郡松尾(長野県飯田市)に住んだのに始まる。武田信玄に仕え、武田氏が滅亡後には家康に仕え、家康の関東入国に際しては武蔵本庄1万石を領す。のちに、下総国の古河2万石から関宿藩2万2700石、美濃国の高須藩を経て1691年に越前国の勝山藩2万2700石。【出典】 

# 信濃国伊那郡の松尾小笠原氏は、天文2年(1533年)に、当主の下総守信貴が府中小笠原長棟が、伊那郡の下条時氏に攻められて、本領を放棄して武田氏を頼ったとされる。これらは、史料としては確認できず、「寛政譜」などの系図類に書かれているだけだが、天文4年を最後に確実な史料に、小笠原信貴が伊那郡で形跡したことがないので、天文4年頃に本領を逐われ、天文23年の武田氏の下伊那平定によって本領復帰を遂げたのではないかと推定される。信貴の嫡男の信嶺は、武田信玄の弟の逍遙軒信綱の息女を正室とするなど厚遇されており、武田氏の支援によって本領復帰を果たしたのは事実だろう。【出典

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