神奈川県内の「三浦」の名字の詳細 | |
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■ 三浦(みうら): 神奈川県の三浦家
# 神奈川県の三浦家: 相模国三浦郡三浦をルーツとする。平安時代の末期に多くの分家をだし、鎌倉時代には有力な御家人となった。【出典】
# 神奈川県の三浦家: 相模国の戦国大名で相模国三浦郡(神奈川県横須賀市)をルーツとし、桓武平氏の出。源義家に従って、後三年の役で功をなし、在庁官人として嫡流は「三浦大介」と称した。鎌倉時代には相模国の守護を務めたほか、一族は河内国、紀伊国、讃岐国、土佐国の守護を務めた。しかし、宝治元年(1247年)の宝治合戦で一族は滅亡した。一族は室町時代には鎌倉公方に仕え、子孫には紀州藩の家老の三浦家がある。【出典】
# 相模国三浦郡の戦国大名。桓武平氏の出。村岡忠通の子の為通が前九年の役で活躍して相模国三浦郡三浦荘(神奈川県横浜市)を賜り、衣笠城に拠って三浦氏を称した。在庁官人として嫡流は「三浦介」または「三浦大介」を称した。源頼朝が伊豆で挙兵すると、義明・義澄父子はこれに従い、義明は衣笠城で討ち死にした。義澄は鎌倉幕府の成立後には相模国の守護になって幕府の宿老として活躍した。以後、一族で河内国・紀伊国・讃岐国・土佐国の守護をつとめる他、義村・泰村・光村は評定衆、和田義盛は侍所別当になるなど、全盛期となった。しかし、宝治元年(1247年)に北条時頼の策謀で宝治合戦をおこし、一族はほぼ滅亡した。室町時代には鎌倉公方に仕え、永享10年(1438年)の永享の乱で時高は足利持氏を自殺に追い込んで勢力を得た。時高は上杉持朝の二男の高救を養子にしたが、のちに高救が上杉家に戻ったことから不和になり、明応3年(1494年)に義同は新井城の時高を討って三浦氏を継ぎ、新井城には子の義意を入れて自らは岡崎城に拠った。永正9年(1512年)に伊豆国から侵入してきた北条早雲に敗れて岡崎城が落城、永正13年には新井城も落城し、義同・義意父子はともに討ち死にした。義意の弟の時綱は里見氏を頼って安房国に逃れ、重臣の正木義時の養子になって、子孫は紀州藩の家老をつとめた。【出典】
# 神奈川県の三浦氏: 相模国の戦国大名。相模国三浦郡三浦荘(神奈川県横須賀市)発祥で桓武平氏の出。為通が前九年の役で活躍して三浦郡を与えられ、衣笠城に拠ったのが祖。以後、代々清和源氏に属し、在庁官人として嫡流は「三浦大介」を称した。平治の乱で義明の嫡男の義澄が源義朝方について敗北。1180年に源頼朝が伊豆で挙兵すると、義明・義澄父子はこれに従い、義明は衣笠城で討ち死にした。義澄は頼朝に従って安房国に逃れ、鎌倉幕府の成立後には相模国の守護となって幕府の宿老として活躍した。以後、一族で、河内国・紀伊国・讃岐国・土佐国の守護を務めた他、義村・泰村・光村は評定衆、和田義盛は侍所別当となったなど、全盛期を築いた。しかし、1247年に北条時頼の策謀で宝治合戦を起こし、一族はほぼ滅亡した。この際、一族の佐原盛連の子は、北条泰時と縁戚関係にあったことから北条方に参加、乱後盛時が本家を継いで三浦介を継承した。しかし、以後相模国には守護は設置されず、勢力の回復はできなかった。室町時代には、鎌倉公方に仕え、1438年に永享の乱で時高は足利持氏を自殺に追い込んで勢力を得た。時高は上杉持朝の二男の高救を養子としたが、後に高救が上杉家に戻ったことから、その子義同を養子とした。その後、時高に実子が生まれたことから不和となり、1494年に義同は新井城に時高を討って三浦氏を継ぎ、新井城には子の義意をいれてみずからは岡崎城に拠った。1512年に伊豆から侵入してきた北条早雲に敗れて岡崎城が落城、義意と共に新井城に籠城したが、1516年に落城し、義同・義意父子は共に討ち死にした。義意の弟の時綱は里見氏を頼って安房国に逃れ、重臣の正木義時の養子となり、子孫は紀州藩の家老となった。【出典】
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