「らわ」行の人々 | |
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■ 頼山陽(らいさんよう): 1780−1832年。儒学者を父に持ち、広島藩で育った。山陽自身も儒学を学び、また歴史を研究した。日本外史を完成。日本政記は勤王思想を広めた。【出典】
■ 頼三樹三郎(らいみきさぶろう): 1825−1859年。頼山陽の三男。大坂・江戸で儒学を学んだ後に、尊皇運動を始め、徳川家の菩提寺の石灯籠を破壊する事件もおこした。ペリーの来航後、さらに活発な運動を始めたため、幕府から危険人物と見なされた。安政の大獄で捕らえられて斬首になった。【出典】
■ 蘭渓道隆(らんけいどうりゅう): 1213−1278年。南宋の禅僧。1246年に来日。北条時頼の帰依を受けて鎌倉に建長寺を開いた。臨済宗を広めて、多くの弟子を育成。元の密偵と疑われたり、讒言によって、甲斐国に配流されたりもした。【出典】
■ 柳亭種彦(りゅうていたねひこ): 1783−1842年。戯作者。江戸旗本の長男。歌川国貞の挿絵を得て、いくつかの物語を合わせた合巻作者として名声を極めた。【出典】
■ 六角義賢(ろっかくよしたか): 1521−1598年。近江国南部の守護大名。室町将軍家を助け、三好氏と争ったが敗退した。従属下にあった浅井氏の反抗にも敗れ、没落した。後に豊臣秀吉に仕えた。【出典】
■ 脇坂安治(わきさかやすはる): 近江国(滋賀県)の出。豊臣秀吉に仕えた。賤ケ岳の七本槍の一人。秀吉の死後は徳川家康に従ったが、石田三成の挙兵の際には大坂にいたため西軍に属した。小早川秀秋に呼応して、朽木元綱らとともに寝返って東軍に与した。その結果所領は安堵された。【出典】
■ 和田義盛(わだよしもり): 1147ー1213年。桓武平氏の三浦氏の一族。源氏の源頼朝に従い、初代の侍所別当になった。平家の追討や比企氏の乱の平定などに参加した。源頼家の専制を抑えるために始められた13人の合議制(評定衆の原型)の一人で、権力を持ったが、二代執権の北条義時と対立して兵を挙げ、和田一族は滅亡した。これを和田合戦という。【出典】
■ 度会家行(わたらいいえゆき): 伊勢外宮の神官。伊勢神道を創始し、神主仏従、外宮信仰を主張する。勤王家として北畠親房ら南朝方を支援し、思想的影響を与えた。【出典】
■ 和辻哲郎(わつじてつろう): 1889−1960年。ニーチェをはじめとする西洋哲学を研究し、日本的な思想を加えた「和辻倫理学」を体系化した。【出典】
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