静岡県内の「伊東」の名字の詳細
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■ 伊東(いとう)

# 静岡県の伊東家: 藤原南家工藤氏があり、その一族に伊東氏がある。後に、尾張国岩倉に移り住み、伊東長久が信長に仕え、その子の長実が秀吉の配下となった。備中川辺1万石から備中岡田1万石。日向国飫肥藩伊東家とは平安時代に分かれた同族。

# 静岡県内では、発祥地の伊豆には少ない。伊勢国の藤原氏から起こった伊藤姓とは本来違うが、伊東を伊藤と書いてある史書が多い。伊東氏は藤原南家工藤氏流で遠江権守藤原為憲の後裔、工藤維職が伊豆国の押領使になって伊東(伊東市)に住んで伊東氏を称したのが祖。【出典

# 源頼朝が伊豆に挙兵した時に、伊東一族は味方したが、最有力者であった伊東祐親だけは平家軍に加わろうとして鯉名浜(下田市)に兵船を浮かべたというから、当時伊東氏は居住地の伊東から南伊豆一帯に勢力を張り、水軍まで擁した伊豆国第一の豪族であったと見られる。流人であった源頼朝は祐親の娘の八重との恋が悲恋に終わった後に北条時政の娘の政子と結婚したが、八重姫と頼朝が結ばれたとしたら伊東一族にとっては以後の歴史が大きくかわった可能性がある。【出典

# 伊豆の伊東氏は、維職の七代孫の祐時が九州の日向国の地頭職となって1198年に、日向国に移住し、子孫は江戸時代には、日向国の飫肥藩主になって、一族の祐清の子孫は備中岡田藩主となった。伊東に残った地頭職の朝高は弘長年間のころに、日蓮上人に帰依した。戦国時代になると、伊豆国は小田原の北条氏に掌握されたが、伊東祐遠は1481年に、北条早雲に従って本郷村(伊東市)を与えられ、ふたたび先祖伝来の地に帰った。九郎三郎政世は、北条氏に仕えて伊東地内を領し、九郎五郎は奈古谷(韮山町)を領した。北条氏の滅亡後、政世は徳川家康に仕えて、子孫は江戸時代には旗本。【出典

# 一刀流の剣法を編み出した、伊東(藤)一刀斎弥五郎景久の出生には諸説あるが、伊東住人の伊東弥左衛門友久の子とも言われる。一刀斎は越前敦賀城主の大谷吉継に仕え、関ヶ原の戦いでは吉継が敗死した後に下総国で隠居したという。【出典

# 庵原郡西久保(清水市・現静岡市)の鹿島神社の祠官の伊東氏の先祖の伊東左衛門は、源頼朝の家人であったが、伊東からこの地に移住したといい、子孫は代々法印を継いだ。相良の伊東氏は伊豆の伊東氏と同族で、藤原南家工藤氏流の相良周頼の子の光頼から伊東氏を称し、後裔の頼堯は伊藤大夫と号したとある。戦国時代に、今川家の家臣の左近将監元実は三河国の吉田城代となって、若狭守の子の武兵衛は織田信長に仕えたが、人を斬ったために尾張国を立ち退いて今川氏真に仕え、永禄12年に、掛川の天王山で討ち死にした。【出典

# 引佐郡渋川村(引佐町)の伊東氏は伊豆の伊東氏の出。応永年間の頃に、三河国に転じ、大永年間に子孫の刑部祐雄が来住し、その後は長男の弥刑部が継いで、二男の刑部作は宮脇に転じたという。【出典

# 静岡県内の「伊東」の名字の詳細

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