源平藤橘 | |
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■ 源平藤橘(げんぺいとうきつ)
・ 臣籍降下の際に与えられた大姓。
・ 姓は氏のランク分けで、天武天皇の頃には「八色の姓(やくさのかばね)」といわれていたが、後に残ったのが、藤原氏・橘氏・源氏・平氏の四姓である。これらを「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」という。
【源氏】
平安時代には、皇室の数が増えすぎて、臣籍降下が行われた。 その際、天皇は「朕(ちん)と汝(なんじ)は源(みなもと)を同一にする」という意味で「源」という姓を与えた。これが、「源氏」の始まりである。 この際、名字を与えた天皇の名を取って「清和源氏」「宇多源氏」と呼ばれる事が多い。 そして、同じ源氏でも住み着いた地域を取って「甲斐源氏」「近江源氏」等と呼ばれるようになった。
平氏も同じです。有名な所では桓武天皇から「平」の氏を与えられた「桓武平氏」がある。
# 源氏二十一流: 「宇多源氏」「嵯峨源氏」「清和源氏」「村上源氏」などには名字の出自になったものが多い。
# 甲斐源氏の武田氏
源義光は常陸介の後に甲斐守に昇進し、甲斐の国に赴任した。義光の次男義清は常陸国那珂郡武田(茨城県勝田市)に住み武田冠者と呼ばれたが、甲斐国に配流され、その子の清光が辺見庄(北巨摩郡)に住んで辺見氏を名乗った。清光の次男信義が武河庄武田(韮崎市)に住んで甲斐の武田氏の始祖となった。信義の甥の長清が中巨摩郡小笠原に住んで小笠原氏を称し、長清の弟の光行は中巨摩郡南部に住んで南部氏を名乗った。
小笠原氏は後に信濃国深志(長野県松本市)を本拠とし、その後明石から小倉に移封され幕末を迎える。南部氏は光行が頼朝の奥州ぜめの勲功で陸奥国北部を与えられ、後に盛岡を本拠地とした。
※ 小笠原氏は後に小笠原諸島を発見し、小笠原諸島の語源とされる。
【平氏】
・ 平氏と言えば、「平清盛」や「平将門」が有名。【桓武平氏】
【藤原氏】
・ 藤原氏の本姓は「中臣(なかとみ)」と言い、中臣とは神と人の間にいる臣で祭祀を司る。その遠祖は「アメノコヤネノ命(ミコト)」。朝廷の中級官僚であった中臣鎌足は時の権力者の蘇我蝦夷(そがのえみし)・蘇我入鹿(そがのいるか)親子に対向すべく中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)をたててクーデター?をおこし天下を掌握した。これが大化の改新で、これを期に豪族の私有地であった「部」が天皇に没収され、豪族には官職と位階が授けられ、部族連合国家から中央集権国家となった。中大兄皇子は後に天智天皇になり中臣鎌足に鎌足の生誕の地である飛鳥の藤原にちなんで「藤原」の姓を与えた。【藤原氏から出た名字・「藤」族の名字】
# 源頼朝の奥州遠征で奥州藤原氏は滅んだが、この時遠征に参加した鎌倉武士が奥州に所領を与えられその地名を名字にしていった。中には後に戦国大名となった家もあり代表例として、伊達・南部・畠山・三浦・相馬・結城などがある。
・ 日本最古の国史である「古事記」が書かれた。和銅元年(708)に元明女帝の即位に際して、歴代の天皇につかえた女官長の県犬養三千代(あがたいぬかいみちよ)の労を労って酒杯に橘を浮かべ「橘は果物の王である。その枝は霜や雪にもめげず繁茂し、葉は寒暑にもしぼまない。しかも光は珠と輝きを争い、色は金銀と交わってますます美しい。この橘を氏とせよ」という詔とともに橘の姓を賜ったのが始まり。女性で氏を与えられた唯一の例だそうだ、しかも与えたのも元明女帝だから女だ。
橘氏を遠祖とする名字は少なく、楠木正成や由井正雪くらいだそうだ。