鹿児島県の戦国史
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■ 鹿児島県の戦国史

# 鹿児島県の戦国時代島津氏の歴史と言ってもいい。島津氏は鎌倉時代初めから薩摩国大隅国の守護を務め、日向国守護も兼ねた。南北朝時代頃までは、薩摩国では酒匂氏が、大隅国では本田氏守護代として補佐したが、室町時代後期には、島津家庶流と老中といわれた重臣によって治められた。【出典

# 戦国時代には伊集院家平田家本田家などが老中をつとめ、被官となった国人層は地頭として小領主的な立場であった。しかし、他国の国衆たちとは異なり、繰替(くりかえ)と言われる島津氏による異動が行われた。これによって、国人層は本貫地から切り離されて島津氏の統治機構に取り込まれ、独立性は失われた。【出典

# 戦国時代の初期までは、こうした支配地は薩摩半島のみであったが、貴久は天文23年(1554年)から弘治3年(1557年)まで続いた蒲生合戦で蒲生氏を降して蒲生領内に新たに地頭を設置し、永禄12年(1569年)には菱刈氏、元亀元年(1570年)には入来院氏や東郷氏を降して薩摩国を統一した。天正2年(1574年)に肝付氏伊地知氏を降して、大隅国も支配し、天正5年には日向国伊東氏も降して、薩摩国・大隅国・日向国を支配下においた。さらに耳川合戦で大友氏を降すと、肥後国にも侵攻して人吉の相良氏被官として、肥後国南部も支配下とした。【出典

# さらに天正12年には島原半島で龍造寺隆信を討ち取って龍造寺氏を従えると、隈部氏や小代氏、阿蘇氏も従えて肥後国の全域を掌握した。これをうけて、豊臣秀吉から和平を要請されたが、拒否して筑後国筑前国にも侵攻した。天正14年には豊臣秀吉の派遣した仙石秀久らの軍勢を戸次川で降し、大友義統を府内城(大分県)から追って、事実上は豊後国を制したが、翌年に秀吉自らが九州に出兵した結果、島津義久は豊臣秀吉に降り、島津家の領地は薩摩国大隅国に減らされた。【出典】 

戦国時代とは

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