| 筑前国 | |
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# 旧西海道。
# 現在の福岡県の西部。
# 太閤検地での石高: 33万石。【戦国大名県別国盗り物語 八幡和郎 PHP文庫】
# 延喜式による国力順位(納税額による)【本当は面白い「日本中世史」 八幡和郎】。筑前国は22位。
# 古代表記: 筑紫の国 → 筑前・筑後
# 筑紫=「竹斯(ツクシ)」。九州はかつては竹斯と呼ばれていた。築地のことで土を埋めて均したこと。
■ 伊都郡(いとぐん)
・ 怡土(いと)の郡: 筑前国。筑前の国の風土記にいう。怡土の郡。昔、穴戸の豊浦の宮に天の下をお治めになった足仲彦の天皇(仲哀天皇)が熊襲を討とうとして筑紫におでましになったとき、怡土の県主らの祖五十跡手は、天皇がおいでになったと聞いて、五百枝(いほえ)の賢木(さかき)を根こじに引き抜いて、船の舳と艫に立て、上の枝には八尺瓊(やさかに)の玉をかけ、中の枝には白銅鏡(ますみかがみ)をかけ、下の枝には十握剣をかけて、穴門(あなと)の引島(彦島)に参り迎えて献った。天皇は勅して、「誰人か」と問わせ給うた。五十跡手は奏上して、「高麗の国の意呂(おろ)山(蔚山・うるさん)に天から降ってきた日桙(ひぼこ)の末裔の五十跡手とは私のことです」といった。天皇はここに五十跡手を賞して仰せられるには、「恪(いそ)しここぞ。お前五十跡手の本拠地を恪勤(いそし)の国というがよい」と。今怡土の郡というのは訛ったのである。【出典】
■ 遠賀郡(おんが): 筑前国(福岡県)の郡名。岡郡・岡の湊・崗水門と呼んでいたものが、和銅6年以後、乎加・塢舸・遠河・遠賀の2文字が使われ、呼び方も「おか」から「おんが」に変化した。郡名の由来については、「続風土記」が遠賀は岡の真名仮字で、原村(現岡垣町)から芦屋にかけて高い岡が続いていることからだろうといい、「太宰管内志」は「広き岡のあるに依れり」とする。「地理全誌」は「続風土記」の説に反論し、「是(原村)ヨリ西南ノ方、山近キ処ヨリ起レル名」とする。【出典】
・ 福岡県の遠賀郡は一字表記の時には「岡(崗)」と書いた。
■ 嘉麻郡(かまぐん): 筑前国および福岡県の郡の1つ。鎌郡・嘉摩郡とも書いた。東は豊前国田川郡、西は穂波郡、北は鞍手郡、南は夜須・上座郡に接す。地形は、東・南・西三方を山に囲まれた盆地で、郡の南は馬見山・屏山・古処山が東西に並び、馬見山は遠賀(おんが)川の源流をなす。遠賀川を当地では嘉麻川とも呼び、千手(せんず)川・山田川などの支流が流入し、流域に肥沃な農地が形成された。「和名抄」の郷は草壁・三緒・大村・綱別・馬見・碓井の6郷。【出典】
■ 志摩郡
# 韓良郷(からのごう): 福岡県。平安時代に筑前国志摩郡にみられた郷名。高山寺本は訓を「加良漢知」としているが、「地名辞書」はこれを不審として「カラ」の訓をあて、糸島半島の突端部東側の小田周辺に比定している。「韓良」の名辞は、渡来人に関係するものと考えられ、「万葉集」に見える停泊地「韓亭(からのとまり)」は当地にあったと考えられる。【出典】
■ 宗像(むなかた)の郡
・ 西海道の風土記にいう。宗像の大神が天から降って埼門(さきと)山に居られた時に、青※(あおに)の玉をもって、奥津宮の表象とし、八尺瓊(やさかに)の紫の玉をもって中津宮の表象とし、八咫(やた)の鏡をもって辺津宮(へつみや)の表象とし、この三つの表象をもって神体の形として三つの宮に納め、そして納隠(かく)れ給うた。それで身形(みのかた)の郡という。後の人は改めて宗像といった。その大海命の子孫は、今の宗像朝臣らがこれである。云々。【出典】
■ 御笠郡(みかさ): 福岡県。古代より筑前国にみられた郡名。中世には三笠郡とも書いた。「和名抄」では御笠郡を「美加佐」と記しており、その訓は「みかさ」であろう。地名の由来は、「日本書紀」仲哀天皇9月3日条に神功皇后が羽白熊鷲討伐のため橿日宮から松狭宮に移る途中、つむじ風が起こって御笠が吹き落とされたので、その地を御笠といったという。【出典】