「日・日足」の家紋の解説
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■ 「日」の家紋の解説: 「日」の家紋図

# 日足紋は、太陽の光芒(こうぼう)を表す家紋とされる。古来、太陽は世界各地で信仰の対象として崇められてきた。平安時代末期から九州地方で活躍した高木氏草野氏の一族で使用された家紋だが、高木氏の家伝では、夢の中に出てきた八幡神から「朝日を旗紋とせよ」との啓示があったとされる。この他に、戦国大名龍造寺氏の権力を継いだ鍋島氏大村氏豊臣秀吉の一族の木下氏、幕臣では中島家伴野家勝屋家で使用された。北九州地方に多く見られる。【出典

# 日足紋【出典
・ 六つ日足紋(むつひあしもん): 円は太陽を表し、放射線状に日光を描いた紋。九州の龍造寺家の家紋として有名。九州に多く見られる。

# 日紋のうち、「放射状に光を出しているもの」を日足紋という。旧日本海軍の軍艦旗の「旭日旗」などがそれ。

# 日(日輪): 太陽をかたどった紋。菊や天宝も日輪をイメージしていると言われる。【日本人なら知っておきたい 家紋と名家のいわれ 大野敏明 実業之日本社】

# 草野家は日足紋【武将と家紋 インデックス編集部】

# 日足紋(ひあしもん): 日足は、中心に太陽を表す円と放射線状に日光の光芒(こうぼう)を描いたもの。太陽は世界中で信仰対象とされ、日本では国号となり、また国旗の文様ともなっている。しかし、太陽は皇帝の象徴物でもあり、臣下たる者が容易に使用することは憚られてきた歴史もある。また、月、星を家紋にする一族は多数有るが、太陽を家紋にする少ない。つまり日足紋が太陽として伝承されてきた歴史には理解するが、その根源が本当に太陽であったかは疑わしい。日足紋は九州の豪族の高木氏のの使用紋として有名だが、日足紋を使用する家は龍造寺氏草野氏菊池氏などを含む北九州に広がっている。高木氏は肥前国佐賀郡高木庄の地名に由来するが、高木という地名は神の依代(よりしろ)となる木の柱を高くたてて神事を行った土地を意味し、高橋の名字とも意味を同じくする。高木氏が早く神事を執り行いながら勢力扶植した一族であることは、その後に肥前国の一宮である輿止日女神社(よどひめじんじゃ・河上神社)の大宮司家であったことからも想像に難くない。また有力一族の筑後国の住人の草野次郎大夫永平も、唐津の鏡神社の大宮司に任ぜられたことが、「吾妻鏡」の文治2年(1186年)12月10日条で確認できる。「吾妻鏡」に登場する様子から、当時、高木一族の中で有力だったのは草野氏と思われ、「太平記」の「菊池合戦の事」でも「草野筑後守、子息肥後守、高木肥前守」という順で書かれている。筑後国や肥前国に勢力を持った高木氏草野氏が使用し、その一族が広く使用した。菊池氏も日足紋を使用した時期があると伝わり、現在も菊池姓で日足紋の使用が確認できる。寛政譜には、肥前国蓮池藩鍋島氏が「十二日足」を、幕臣では中島家伴野家勝屋家が載る。ほかには上妻氏赤司氏於保氏飯塚氏、石尾氏、石丸氏市来氏多久氏神崎氏、崎向家、佐藤氏杉原氏、鳥巣氏、井上氏河内氏坂東氏、平部氏、江上氏、深江氏、西田氏、比留氏、別府氏水之江氏などに見られる。圧倒的に九州に多く、佐賀県、福岡県、熊本県、長崎県、大分県、宮崎県、山口県などに多く見られる。【出典

# 日足紋: 日本は極東に位置する。日が昇る国。太陽そのものだけでは文様になりにくいため、輝く光を足したのがこの紋である。肥前国の龍造寺家や鍋島家草野家伴野家などに見られる。【出典

# 日月紋(じつげつもん): 太陽と月をかたどった紋。古来、太陽を神格化した存在として天照大神があり、その子孫とされる天皇は「日の御子」と呼ばれた。太陽は農耕に欠かせぬエネルギーである。大宝元年(701年)元旦、文武天皇が大極殿(だいごくでん)で朝賀を受けた。このとき、日像幢(にちぞうとう)、月像幢(げつぞうとう)と言われる旗が立てられた。その後、日月は皇室の紋章として錦の御旗にもつけられる。渡辺家などに見られる。【出典

# 日の丸紋(ひのまるもん): 弥生時代以降の日本においては、稲作が食料の基本になった。当時、太陽は農耕神の最高峰に置かれた。戦国武将たちは、そんな太陽のエネルギーを自分のものにし、勝利を得ようとした。彼らは、こぞって日の丸紋を軍扇に描き、また軍旗に使用した。春日局の父の斎藤利三(としみつ)の家紋は「太陽に雲をあしらった日紋」である。ちなみに、春日局の家紋は母方の稲葉家の「折敷に三文字紋」を使用した。ペリー来航の翌年、江戸幕府は白地に日の丸を制定した。これが事実上の日本国旗となった。その後の戊辰戦争では、会津若松城や箱館の五稜郭に日の丸が翻り、賊軍の旗となった。そのため、明治政府は、日の丸を国旗とすることを嫌い、十六ヵ弁の菊紋(天皇紋)に変えようとした。しかし、日の丸紋はすでに日本国旗として世界に認知されていたため断念した。美濃の斎藤家、土佐の深尾家望月家天野家、比留家などに見られる。【出典

# 日足紋(ひあしもん): 太陽だけでは紋になりにくい。そこで、太陽の周りに光をあしらって、「日足」と名付けた。この光の形には、先端の尖ったものと、平らなものがある。秀吉の北政所の実家の木下家の備中足守藩では、秀吉が天皇から拝領した菊紋と桐紋を改めてもらった。しかし、菊紋は恐れ多いとして、花芯の部分を三つ巴紋にして、十六ヵ弁を日足に変えて使用した。龍造寺家鍋島家木下家草野家伴野家勝屋家中島家などに見られる。【出典

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