「すぎはら」の名字の由来
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■ 椙原(すぎはら)

【2022/09/28:新載】

# 宮城県の椙原家: 仙台藩士源氏の出。播磨国椙原荘(兵庫県多可郡加美町)をルーツとするという。赤松氏に仕えていたが、赤松氏の滅亡後には江戸に出て、のちに仙台藩士。【出典

# 現在は山陽地方に多く見られ、杉原氏の転訛か。【出典

# 参考: 桓武平氏の出

# 「杉・椙」のつく名字

# 「原」のつく名字

■ 杉原(すぎはら)

【2023/05/23:改編】

# 代表家紋

# 備後国の杉原氏は、桓武平氏の出で、桑名桓平の子の光平が備後国杉原荘(広島県)を領して杉原氏を称したものか。光平と邦平は鎌倉幕府の奉行人となった。南北朝時代には足利尊氏に従い、備後国における北朝の有力一族。【出典

# 備後国南部の国衆桓武平氏の出で、桑名桓平の子の光平が備後国御調郡椙原保(広島県尾道市)を領して椙原氏を称したか。「椙原」とも書いた。八ツ尾城(広島県府中市)に拠って、光平と邦平は鎌倉幕府の奉公人になった。建武3年(1336年)に足利尊氏後醍醐天皇に叛いて九州に逃れた際に、信平・為平兄弟が尊氏に従った。観応2年(1351年)に、信平は福田荘・高洲荘の地頭になって、末裔は木梨杉原家とに分かれた。南北朝時代には、備後国における北朝方の有力一族で、室町時代には幕府の奉公衆になった。戦国時代には、鷲尾山城(広島県尾道市木ノ庄町)に拠っていたが、元亀3年(1572年)に石原忠直に敗れて落城した。その後、小早川隆景の支援を得て、鷲尾山城を奪回した。その後は、毛利氏に従って、文禄4年(1595年)に、周防国に転じた。【出典

# 戦国大名の杉原氏もこの子孫か。家次の時に豊臣秀吉に仕え、子の長房は但馬国豊岡で2万石を領した。【出典

# 現在は、関東地方から中国地方にかけて広くみられ、特に山陽地方に多く見られる。【出典

# 国衆

# 石川県の杉原家

# 「杉・椙」のつく名字

# 「原」のつく名字

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