「志賀」の名字の由来
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■ 志賀(しが)

【2023/01/17:改編】

# 代表家紋

# 福島県浜通りと大分県に多くみられる。

# 古代豪族の志賀氏は近江国志賀郡(滋賀県)をルーツとする。

# 豊後の志賀氏は豊後国大野郡大野荘志賀村(大分県豊後大野市)をルーツとし藤原北家

# 信濃の志賀氏は信濃国佐久郡志賀郷(長野県佐久市)をルーツとする。

# 志賀(しが): 丹波国何鹿郡の国人清和源氏頼政流とも、武内宿禰末裔とも言う。室町時代の初期の頃に何鹿郡吾雀荘(京都府綾部市)に入部し、応永年間に頼宗が志賀城(京都府綾部市志賀郷町)に拠った。嫡流は城のあった北野に因んで北野城主家と呼ばれ、九代の政綱のときに明智光秀の丹波攻略でその配下になった。政綱は1582年の山崎合戦に明智方として参陣して討ち死にした。1512年に一族の志賀八良右衛門尉が吾雀荘内の山尾村を与えられ、以後は山尾領主家となった。1522年に、志賀次良永門尉が丹波国の守護の細川高国に仕えて、1529年には丹後国田辺郷(京都府舞鶴市)の代官になって赴任。1531年に高国の没後には管領の細川晴元に従って各地を転戦した。江戸時代には、末裔庄屋を務めた。【出典

# 志賀(しが): 豊後国大野郡の国人。1240年に大友能直の八男の能郷が大野郡大野荘志賀村(大分県豊後大野市)の地頭職を与えられ、志賀氏を称した。鎌倉時代後期に、嫡流の北志賀家と、南山城に拠った庶流の南志賀家に分かれた。南北朝時代には、大友氏に従って、北朝に属した。戦国時代には直入城に拠って大友氏の重臣を務め、親守は大友義鎮・義統の加判衆をつとめた。大友氏が改易された後には、1596年に親次は豊臣秀吉から豊後国日田郡で1000石を与えられ、関ヶ原の合戦の後には福島正則小早川秀秋を経て、熊本藩士。【出典

# 宮城県の志賀家

# 長野県の志賀家

# 作家の志賀直哉は宮城県石巻市の出身。

# 「志」のつく名字

# 「賀」のつく名字

# 古代豪族の志賀氏

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