「野間」の名字の由来 | |
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■ 野間(のま)
【2023/06/02:改編】
# 代表家紋
# 伊予国野間郡は古代野間国造が領したが、中世では河野・新居氏族が知られる。尾張の野間氏は藤原北家秀郷流の波多野氏族で、戦国時代に三好長慶の家臣を経て幕臣となった系がある。備後国安芸郡保木城主の野間隆実の系は同地の名族だが、祖は尾張国から移住したとも。大隅国では禰寝(ねじめ)氏族、上野国では新田氏族などがある。代表家紋は「茗荷紋」「杏葉紋」「木瓜紋」「花菱紋」。【出典】【家紋のデータ】
# 尾張国の野間氏は知多郡野間荘(愛知県知多郡美浜町・南知多町)をルーツとする。1445年に安芸国安南郡矢野村(広島県広島市安芸区矢野町)に転じた。隆実のときに陶氏に従い、毛利氏によって滅亡した。【出典】
# 旗本の野間氏も同族。織田信長を経て、徳川家康に仕え、家康の関東入国とともに武蔵国豊島郡に転じた。【出典】
# 摂津国の野間氏は豊能郡野間(大阪府豊能郡能勢町)をルーツとする。清和源氏の多田氏の出。【出典】
# 薩摩国の野間氏は河辺郡野間(鹿児島県川辺郡笠沙町)をルーツとする。禰寝氏の一族。【出典】
# 現在は、西日本一帯に分布しているが、特に愛媛県と鹿児島県に多く見られる。【出典】
# 西日本に分布し、特に愛媛県と鹿児島県に多い。【出典】
# 尾張の野間氏は尾張国知多郡野間荘(愛知県知多郡美浜町・南知多町)をルーツとする。文安年間に安芸国に転じ、陶氏に従い、毛利氏に滅ぼされた。【出典】
# 旗本の野間家も尾張の野間氏の同族。織田信長から徳川家康に仕えた。【出典】
# 摂津の野間氏は摂津国豊能郡野間(大阪府豊能郡能勢町)をルーツとし、清和源氏の多田氏の出。【出典】
# 伊予の野間氏は伊予国野間郡(愛媛県)をルーツとする。【出典】
# 薩摩の野間氏は薩摩国河辺郡野間(鹿児島県南さつま市)をルーツとする。禰寝氏の一族。【出典】
# 安芸国安南郡の国衆。清和源氏の足助氏の庶流。重宗が足利義満から尾張国知多郡野間荘(愛知県知多郡美浜町周辺)を賜って、野間氏を称した。文安2年(1445年)に重能が足利義政から安芸国安南郡矢野村(広島市安芸区矢野町)を賜って下向した。以後、矢野城に拠って、広島湾東岸一帯と二河川流域を支配し、水軍を率いて大内氏に属した。大内氏の滅亡後には隆実は陶氏に属し、弘治元年(1555年)に毛利氏に敗れて落城して滅亡した。【出典】
# 安芸国安南郡の国人。清和源氏の足助氏の庶流。重宗が足利義満から尾張国知多郡野間荘(愛知県知多郡美浜町周辺)を与えられて野間氏を称した。文安2年(1445年)に重能が足利義政から安芸国安南郡矢野村(広島県広島市安芸区矢野町)を賜り下向した。以後、矢野城に拠って、広島湾東岸一帯と二河川流域を支配し、水軍を率いて大内氏に属した。大内氏の滅亡後には隆実は陶氏に属し、弘治元年(1555年)に毛利氏に敗れて落城、滅亡した。【出典】
# 京都府の野間家
# 「内」のつく名字。
# 「野」のつく名字。
■ 野間川内(のまかわうち)
【2018/08/07:新載】
# 鹿児島県にみられる。【名字の謎学 博学こだわり倶楽部編 KAWADE夢文庫】
# 鹿児島県の名字で南大隅町にまとまってみられる。【出典】
# 「内」のつく名字。
# 「川」のつく名字。
# 「野」のつく名字。
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