「陶」の名字の由来
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■ 陶(すえ) 

【2022/01/14:改編】

# 周防国吉敷郡陶村(山口県山口市陶)をルーツとし、大内氏庶流。室町時代には周防国の守護代を世襲し、戦国時代には大内家の重臣。のちに大内家にとってかわったが毛利氏に敗れて滅亡した。【出典

# 山口県の陶家

# 古代豪族の陶氏は和泉国大鳥郡陶をルーツとする。また周防国吉敷郡陶をルーツとする陶氏は大内氏の一族。【出典】   

# 陶の地名は古代の製陶(せいとう)の地。古くは和泉国大鳥郡陶発祥の古代豪族。中世、周防国吉敷郡陶より起こるは守護大名大内氏の同族で、晴賢(はるかた)のときに宗家の大内義隆を殺した後に毛利氏に滅ぼされた。【出典】【家紋のデータ

# 周防国吉敷郡陶村(山口市陶)をルーツとする。大内氏庶流。右田重俊の弟の弘賢が陶に住んで陶氏を称した。子の弘政は都濃郡富田(山口県新南陽市・現周南市)の地頭になって本拠を富田に移し、若山城を築いた。1401年に、弘長は長門守護代となり、1432年には盛政が周防守護代になって、以後周防の守護代を世襲した。戦国時代には、陶晴賢が大内氏の重臣として活躍していたが、やがて相良武任と対立、1551年に大内義隆を大寧寺に攻めて自刃させ、義長に大内氏の家督を相続させるとともに自らは後見として実権を握った。しかし、1555年に厳島の合戦で毛利元就に敗れて自刃、嫡子の長房も自刃して滅亡した。【出典

# 陶家(すえけ): 家紋「唐花菱紋」

・ 周防国都濃郡富田(山口県周南市)を本拠地とした。

・ 大内氏の一族。平安時代に大内盛長が周防国佐波郡右田村に住んで右田氏を称し、弘賢が吉敷郡陶村に住んで陶氏を称した。大内氏の重臣を務めたが、大内氏を討って実権を得たが、後に毛利氏に滅ぼされた。【戦国大名「御家」系譜事典 宝島社 監修:森岡浩】

# 神に供える器(陶器)のことで、それを作る場所が地名となって、名字になった。それから派生した名字に、須江、須衛、末次、末長などがある。【出典

# 「陶(すえ)」の地名 

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