大内家 | |
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■ 大内家(おおうちけ): 「大内」の名字の由来
# 代表家紋
# 地名姓で各地に大内姓がある。
【守護大内氏】
・ 周防の大名の大内氏は百済聖明王の子の琳聖太子の子孫と称すが、多々良氏の出と言われる。
・ 平安時代末期の大内盛房が周防介になり、鎌倉時代には在庁官人として周防権介を世襲でつとめた。
・ 後に周防国、長門国、石見国の守護をつとめた。
・ 1557年に毛利氏に滅ぼされた。
【伊賀大内氏】
・ 伊賀国伊賀郡大内郷(三重県上野市)をルーツとし、伊賀の守護をつとめた大内氏は清和源氏の平賀氏の一族。
【常陸大内氏】
・ 常陸国那珂郡大内(茨城県那珂郡那珂町)をルーツとする大内氏は清和源氏の佐竹氏流で佐竹行義の三男の義高が大内氏を名乗った。
【駿河大内氏】
・ 駿河国庵原郡大内(静岡県静岡市清水区)をルーツとする大内氏は藤原南家の工藤氏の庶流。
【その他】
・ 下野の大内氏は下野国芳賀郡大内(栃木県)をルーツとし、藤原北家秀郷流。
・ 加賀の大内氏は加賀国江沼郡大内村(石川県加賀市)をルーツとする。
# 大内家の家紋
# 大内家
・ 大内氏は多々良姓で周防国の在庁官人として成長した。南北朝時代に大内弘世が南朝側で活躍したが、後に北朝側に転じ、周防国の長門国の守護となった。弘世の子の義弘の時代に、一時は領土を拡大したが三代将軍の足利義満に反旗をひるがえし、滅ぼされ、再度周防国と長門国に閉じ込められた。その後、義隆の時代に家臣の陶晴賢に殺され、義長の時代に毛利家に滅ぼされた。【「系図」を知ると日本史の謎が解ける 八幡和郎 青春出版社】
# 大内家(おおうちけ): 家紋「大内菱紋」
・ 周防国山口(山口県山口市)を本拠地とした。
・ 百済の聖明王の第三王子の琳聖太子が周防国多々良浜に住んで、その末裔が大内村に住んで大内氏を称した。享禄元年(1528年)には大内義隆が周防国や長門国などの7カ国の守護を兼ねる大大名となったが、弘治3年(1557年)に毛利家に滅ぼされた。庶流は江戸時代に牛久藩主。【戦国大名「御家」系譜事典 宝島社 監修:森岡浩】