牛久藩 | |
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■ 牛久藩(茨城県牛久市)
・ 「牛久」の地名
・ 山口家は、豊前国の大内義弘の子孫。周防国山口から尾張国星崎に転じて織田信長に仕えた。初代の重政は信長の長男の信忠に仕え、本能寺の変で信忠が戦死したのちには信雄に仕えた。その後家康に仕え、上総国で5千石。関ヶ原の戦いの後には常陸国牛久藩1万2千石。明治時代には子爵。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】
・ 慶長6年旗本山口重政が、常陸に5000石を加増され1万石となり立藩。慶長16年重政は下野に5000石を加増され、1万5000石となったが、同18年嫡子重信が幕府の許可を受けないで大久保忠隣の養女と婚姻したことで勘気を受け、除封され一時廃藩。しかし寛永6年重政は大坂夏の陣の軍功などによって、常陸河内郡・遠江において1万5000石余を与えられ再び立藩。寛永10年領内総検地を実施。寛文9年には城中村南原の一角、牛久沼に舌状に突き出た台地上に陣屋を創設。天明年間の「中士以上家中覚書」によれば中士以上の藩士は68名で30種の役職についている。【出典】
# 牛久藩(うしくはん): 常陸国。牛久陣屋。山口家。譜代大名。1万石。慶長6年に立藩。控間:菊間。格:城主。位階:従五位下。上屋敷:港区赤坂。慶長6年に、山口重政が大名になって立藩した。大久保長安事件に連座して改易になったが、再立藩した。【出典】
# 牛久藩士:
【注意】転封などがあるため、藩主や石高には変化があります。ここでは一例を掲載しています。