大分県内の「大友」の名字の詳細
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■ 大友(おおとも): 大分県の大友家 

# 大分県の大友家: 相模国大友郷(神奈川県小田原市)をルーツとする。藤原北家秀郷流。鎌倉時代に豊後国守護となり勢力を拡大したが、豊臣秀吉に領地を没収され、江戸時代には高家。【出典】  

・ 豊後国の戦国大名。相模国足柄上郡大友郷(神奈川県小田原市)をルーツとする。系図上では、初代の能直は源頼朝の落胤となっているが、実際は近藤能成の子で、後に中原親能の養子となり、豊後の守護になった。初代の能直と二代親秀の庶子地頭職を得て、豊後国を中心に次々と下向。総領家が下向したのは三代頼泰の時で、元寇に備えた1271年頃とみられる。六代貞宗は少弐貞経と、鎮西探題の北条英時を滅ぼし、建武政権下でも豊後守護を安堵され、貞載は肥前の守護となった。1335年に足利尊氏が叛旗を翻すと、後醍醐天皇の命で新田義貞に従って尊氏追討軍に加わったが、間もなく尊氏方に転じ、南北朝時代には主に北朝に属した。室町時代は豊後守護を世襲、氏時以降は筑後守護も兼ねた。永享年間には持直と親綱の間で家督をめぐる争いが起き、将軍の裁量で親綱が持直を討った。戦国時代、義長の頃から戦国大名に脱皮、孫の義鎮(宗麟)は筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後の守護職と日向・伊予の半国を支配して全盛時代を築き、キリシタンに帰依、1582年には少年使節を欧州に派遣した。子の義統は豊臣秀吉に従ったが、1593年に朝鮮・平壌で明軍の攻撃を受けた際に小西行長を見捨てて退却、改易となった。1599年にその罪は許されたが、翌年の関ヶ原の合戦では西軍に呼応して豊後で挙兵、黒田如水に敗れた。その後、長男の義乗は徳川家康に仕え、常陸国筑波郡で3000石。武蔵国牛込で300石の計3300石を領した。関ヶ原の合戦後、子の義親は二代将軍秀忠に仕えたが、1619年に27歳で後継ぎの無いまま死去して断絶した。【出典】 

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