静岡県内の「今川」の名字の詳細
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■ 今川(いまがわ): 静岡県の今川家

# 静岡県の今川家: 駿河の戦国大名三河国幡豆郡今川荘(愛知県西尾市)をルーツとし、清和源氏足利氏流。足利義氏の庶長子の長氏が吉良氏を称し、その二男の国氏が今川氏を称した。遠江国駿河国守護を務め、南北朝時代には北朝に属した。今川家を継いだ義元は三河国まで勢力下において戦国大名として成長した。しかし、信長に敗れ、子の氏真が武田・北条・徳川に敗れて滅亡した。今川氏真は後に徳川家康に仕え近江国野洲郡で500石を得た。江戸時代には品川家改姓して高家。【出典】  

・ 駿河国の戦国大名清和源氏足利氏の一族。足利義氏の庶長子の長氏が吉良氏を称し、その二男の国氏が三河国幡豆郡今川荘(愛知県西尾市)を与えられて今川氏を称したのが祖。室町時代、嫡流は代々駿河国の守護を世襲し、泰範は遠江国の守護を兼ねた。1438年の永享の乱では範忠が活躍、将軍足利義教は功をあげた範忠に対して「天下一苗字」という恩賞を与えた。これは「今川」という名字は惣領家のみが名乗れるようにする、というもので、これを機に遠江今川氏は堀越氏や瀬名氏に改称した。応仁の乱では義忠は東軍に与し、遠江国に攻め入って横地氏、勝間田氏を討ったが、塩買坂(しょうかいざか・菊川市)で両氏の残党に襲われて戦死した。義忠の長男の氏親はわずか6歳だったため、一族の小鹿新五郎範満を擁立する動きが出て内訌(ないこう)状態となり、それを収めたのが義忠の妻の弟(兄とも)の伊勢新九郎(後の北条早雲)で、当主は氏親として、元服するまで小鹿範満が家督を代行することで落ち着いた。1487年に伊勢新九郎は今川家の家督を返さない小鹿範満を討って実力で氏親を名実ともに当主の座に付け、その功で興国寺城主となった。氏親は大河内氏を滅ぼして遠江国を制圧、駿遠二カ国を支配し、「今川仮名目録」を制定、戦国大名に脱皮した。1536年に氏輝が24歳で死去すると、後継ぎがいなかったことから、家臣が氏親の二男の玄広恵探派と、三男の承芳派に分かれて争った(天文内訌)。この争いは承芳派が勝ち、承芳は還俗して義元と名乗った。義元は三河国を抑えて屈指の戦国大名に成長、上洛を試みたが、1560年に桶狭間織田信長の奇襲に敗れて死亡。子の氏真の時には勢力が衰え、1569年に武田氏北条氏徳川氏に敗れて滅亡した。【出典】 

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