「最上」の地名
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「最上」の名字  
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■ 最上(もがみ): 北海道岩見沢市栗沢町最上。地名の由来は、当地域が開拓の頃原野方面から見て最も上に位置していたことによるという。明治27年に伯爵の松平基則が大地積の貸下げを受け小作人を入れて開墾した地を同41年小林米三郎が譲り受け、翌42年に付与された。この小林農場の明治45年の総面積は約141町。うち田4町・畑70町・山林20町・その他47町。小作30戸の出身県は富山15・新潟2・宮城4・香川3・福井2・岐阜2・広島2。【出典

■ 最上(もがみ)郡: 出羽国(山形県)。

# 最上郷(もがみのごう): 平安時代に出羽国最上郡にみられた郷名。「和名抄」にいう最上郡八郷の1つ。現在の山形市街地にあたるか。傍証として「最上家系譜」にある「出羽最上郡山形のに城を築き、同年8月6日最上に至り、山形之城に存す」という史料がある。山形之城のある地域が、最上と意識されていたのである。【出典

# 最上(もがみ)郡: 奈良時代から戦国時代にかけて出羽国(以前は陸奥国)にみられた郡名で、現在の山形県山形市周辺にあたる。「和名抄」刊本では「毛加美」とよむ。和銅3年3月頃から霊亀2年頃にかけてのものと推定される平城宮出土木簡に「陸奥国裳上郡裳□□」とあるのが初見。当時の最上郡は陸奥国に属していたことがわかる。霊亀2年9月頃、陸奥国から出羽国に移管。
 ここに、出羽国最上郡が正式に成立することになった。この時の郡域は、最上川中流域、村山盆地より新庄盆地に及ぶ極めて広大な領域であった。最上郡の最上は、郡内を縦断して流れる最上川に由来したと思われる。現在の上山市山形市山辺町中山町天童市東根市(ひがしねし)・寒河江市(さがえし)・大江町朝日町西川町・河北町・村山市大石田町尾花沢市舟形町・最上町・大蔵村新庄市・戸沢村・鮭川村金山町真室川町にわたる。
 仁和2年11月、最上郡が2郡に分けられた。最上郡と村山郡の成立である。分郡の理由は、人口の増加、土地開発の進展、元慶の乱後の地方政治に対する強化などであろう。
 仁和2年以降の最上郡は、乱(みだれ)川よりも南、最上川および、寒河江市の南方で最上川が大きく西へ曲る後の最上川の南、南を上山市南方の山々、東を奥羽山脈に囲まれた地域に比定できる。山形盆地の南半分とその周囲の山地、最上川支流の須川・立谷川・馬見ケ崎(まみがさき)川の扇状地帯に位置する。今の上山市・山形市山辺町中山町天童市朝日町にわたる。
 延文元年、奥州管領斯波家兼は次男兼頼を山形に入部させ、兼頼は山形に築城して北朝勢力の強化を図った。斯波氏はのちに最上氏を称し、その庶子を高楯城(現上山市)、天童城などに分封しほぼ郡内全域を支配下に置いたものと思われる。

【重要】 その後最上氏は義光(よしあき)の代に至り、積極的に郡内の平定を指向し、天正8年に天童氏を滅亡させ、天正12年には寒河江(さがえ)大江氏を滅ぼし、またその間天正9年には村山郡もほぼ支配下に治め、最上・村山両郡を制圧した。天正18年の豊臣秀吉の奥羽仕置によって最上義光はこの両郡を安堵されている。文禄年間太閤秀吉が検地を命じた際、南を村山郡、北を最上郡とし、古代から続いた最上・村山両郡の位置関係が逆転した。【出典

# 大山荘(おおやまのしょう): 平安時代末期から南北朝時代にかかて出羽国にみられた荘園名。現在の山形盆地の南部と言われる。

# 小田島荘(おだしまのしょう): 平安時代末期から戦国時代にかけて出羽国にみられた荘園名。
小但嶋荘とも書き、「こたしま」とも称した。小田島氏結城氏の名が見える。現在の東根市一帯で村山市や河北町谷地付近も含まれる。【出典

# 成生荘(なりうのしょう): 平安時代末期から戦国時代にかけて出羽国にみられた荘園名。「和名抄」に見える古代の最上郡阿蘇郷の地にあたるか。現在の天童市全域と山形市山寺付近を含む。【出典

# 阿蘇郷(あそのごう): 平安時代に出羽国最上郡にみられた郷名で、「和名抄」にいう最上郡八郷の1つ。高山寺本では阿蘓と記す。
 成生(なりう)荘の位置する地域が安曽郡と称されていた。安曽郡と阿蘇郷とは直接つながらないが、前者に後者の遺名を見出すことは可能である。さらに、立谷川の古名は阿蘇川であったこと、山寺立石寺も創建当時は阿蘇川院と称されていたこと、宝光院知行地の七浦・漆山(現山形市)を阿蘇郷成生荘の内としていたことなどより推して、阿蘇郷を立谷川流域の扇状地に比定することが可能と思われる。【出典

# 藻が湖説 ・ 「モガミ」の語源

【参考: 村山】

■ 村山(むらやま)郡: 平安時代から戦国時代にかけて出羽国にみられた郡名で仁和2年11月、最上郡を2郡に分けて成立したうちの北半分。

# 村山郷(むらやまのごう): 平安時代に出羽国村山郡にみられた郷名で、「和名抄」にいう村山郡六郷の1つ。村山郡衙の置かれた場所を郷域内の東根市大字郡山に求めることができる。

【参考: 庄内】

■ 庄内(しょうない): 戦国時代から出羽国に見られる地域名で荘内とも書き、三荘、庄中とも言われた。庄内の称は赤川流域の庄内平野を占めた皇室領(長講堂領)大泉荘の荘内たることに由来すると言われる。【出典

・ 三荘とは大泉・櫛引・遊佐の3荘を意味すると言われるが不詳

■ 庄内(しょうない): 長野県松本市庄内。地名は捧(ささげ)荘のうちの意と言われる。

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