| 茂木和平古代苗字起源説 | |
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■ 茂木和平古代苗字起源説
・ 高句麗は広開土王の子の長寿王の頃(450年頃)に官僚組織が整備され、五部制を実施した。
「内部(黄部)」「西部(右部)」「北部(後部)」「東部(左部)」「南部(全部)」。
・ 百済の五部制も高句麗の制度に習った。
・ 高句麗および百済の扶余族渡来地を「南部(なんぶ・なんほう)」「前部(ぜんほう・ぜんぶ・まえべ)」といい、苗字の「前川」「前沢」「前島」「前田」「前野」「前原」「舞原」という。
・ 「田」は「村」の意味で、前部の集落を前田という。
★ 【新説 日本人の苗字とその起源】 宮内則雄 著 より 【茂木和平古代苗字起源説】
■ 日本列島の渡来人
# わい貊(わいばく)族
・ 縄文時代に、先住民の?貊(わいばく)族が、朝鮮半島の迎日湾から出雲や越(越前、越中、越後、出羽、津軽までの日本海側)に大量に渡来した。
・ 彼らは後に新羅人と称した。
・ 山形県飽海郡遊佐町大字吹浦字三崎山遺跡から、昭和29年に青銅刀が発見さる、中国のいんの遺跡から出たものと同じ。
# 粛慎(しゅくしん、みせはせ)族
・ 粛慎氏(ロシアウラジオストック付近)
・ 縄文後期から、696年頃まで日本海岸に渡来した。白人系で新潟、秋田美人のルーツ。
・ 大和朝廷は粛慎人を狄(えびす・日本海側の蝦夷)と蔑称し、赤い髪の毛を赤鬼、青い目を青鬼と伝承した。
・ 日本書紀に、「阿倍比羅夫(あべのひらぶ)は斉明天皇6年に、軍船200艘で遠征し、粛慎を弊路弁(ぺろべ)島の柵で打ち破った。」とある。
・ 粛慎(みせはせ)は奈良時代に十三湊や沼垂に住んでいた。
# 呉越(ごえつ)族
・ 弥生時代に呉越族の阿部氏が辰韓(後のしらぎ)、弁韓(後の伽耶)から、先着の?貊(わいばく)族が居住していた出雲や越地方に大量に渡来した。
・ 「出雲国風土記」によると、出雲国神門(かんど)郡古志(こし)郷、現在の島根県出雲市古志町は「いざなぎのみこと」の時、日淵川でもって池を築いたが、この時古志の国人がやってきてすみついたため、古志郷と呼ぶようになった。古志の国人=伽耶地方から渡来した越族(こし族)
・ 出雲国秋鹿(あいか)郡古志郷(松江市古志町)も同様。
・ 越族は出雲から越地方一帯に渡来し、地名に「古志」「越」をつけた。
・
呉越族は阿部氏の始祖とする大彦命(おおひこのみこと)を祭神とする古志王神社を作り、これらは越後や出羽国に多くみられ、山形県内には46社あるという。そのうち山形県飽海郡に18社。
※ 山形県鶴岡市五十川(いらかわ)に古四王神社があり、崇神天皇の時代に日本を平定しようと派遣された四道将軍の一人で北陸道を担当した大彦命(おおびこのみこと)を祀ったもの。
※ 秋田県秋田市に古四王神社(こしおうじんじゃ)がある。
・
呉越族の阿部氏は出雲国の大己貴神(おおなむちのかみ・大国主命)の神裔と称したが、大和朝廷は彼らを蝦夷として軽蔑した。
・ 奈良県高市郡明日香村: 高市郡阿部山村は阿部氏の出雲経由の渡来地。後の神武東征で追われ、一部は出雲に逃げ帰り、残りは奥州に逃げのびた。
・ 呉は「栗」「黒」に転訛した。上野国の栗原氏、黒沢氏。
・ 上野国の星野氏は阿部氏の後裔。
・ 大和から武蔵に移住した出雲阿部族は朝鮮の安羅(あら)出身で、「新(あら・あらい)」を称し。二字の制により「新井」を用いた。新井は埼玉県第一位の名字。
・ 阿(あ)は阿(くま)とも読み、武蔵国熊谷郷は阿部氏の居住地。
・ 奥州の太平洋岸に阿部族熊谷氏が多くいる。
・ 安羅は阿那(あな)といい、阿那伽耶(あだかや)ともいう、安達、足立はここからでた。阿部族の居住地を阿耶地(あだち)という。
・ 越族の居住地を越地(おち)といい、伊予国越智郡に阿部氏が多く見られる。
# 秦氏(はたうじ)
・ 「秦」は「海(はた)」の佳字で、海洋民倭人の本拠地であった狗邪韓国(くやからくに)から渡来し、渦族(うずぞく)は「巴(うづ)」とも言われ、巴は太いので「太(うづ)」とも書き、また、首長を「勝(まさる)」ともいい、「勝」に「秦」をあてて「マサ」といって、「太秦(うずまさ)」と名乗るようになった。
・ 「秦氏系図」によると、秦の始皇帝の孫の胡苑(こえん)が紀元前194年に漢の苦役を避けて朝鮮半島に移り住み、辰韓王となったが、紀元285年の頃、斯廬(しろ)国が勃興して新羅国を建国したとき、辰韓王竺達君は滅亡して百済に移住した。後の竺達君の子孫の功満君・弓月(ゆづき)君の父子が日本に渡来した。
しかし、どうもこれはまゆつばで、実際には秦氏も阿部集団で、大分県宇佐地方に土着し、部名は秦部(はたべ)を称し、苗字は阿部・安部を名乗っていた。
# 漢氏(あやうじ)
・ 漢氏は呉族倭人の本拠地であった安羅国の別名の弁辰安邪(あや)国から渡来した阿部集団。
・ 漢氏は大和国今来(いまき)郡桧前(ひのまえ)村、今の奈良県明日香村に居住した阿部族。
・ 403年に弓月君が百二十県の秦族を率いて渡来。
・ 404年に百済から阿直伎(あじき)が渡来し仁徳天皇の師になった。
・ 405年に百済から王仁(わに)が渡来し太子の師となる。
・ 409年に阿知使主(あちのおみ)が十七県の漢族を率いて渡来した。
★ 参考資料: 【新説 日本人の苗字とその起源】 宮内則雄 著 より 【茂木和平古代苗字起源説】
※ どの説が正しいかの評価は、素人の私にはできませんが、この説は説として面白いです。
■ 市川(いちかわ)
# 市とは非農民の商工業者の集落をいい、特に山間部や川岸に鉱山鍛治師、石工、木工などが居住し、「市川」「市瀬」「市村」などの地名ができた。「川(なり)」は韓語で、人や物の集まる津、港、城を意味する。
■ 小林(こばやし)
# 関東甲信越に多く、東北や西国には少ない。
# 林郷は少林(小林)郷ともいい、少(小)は胡(こ)の佳字で、胡(えびす)のこと。蕃(えびす)は朝鮮からの渡来人をいう。よって、渡来人の林族の集落を蕃林(ばんばやし)とも言い、伴林(ばんばやし)の佳字を使う。
# 藤井寺地方は百済族葛井連(ふじいのむらじ)の居住地で、林郷は別名胡林郷(こばやしごう)といった。よって、百済族の林族を小林というようになった。
# 小さな林の近くに居住したので小林を名乗ったという説は何の根拠も無い。
# 参考: 「伴林氏神社(ともはやしのうじじんじゃ)」は河内国志紀郡拝志郷(大阪府藤井寺市)にある。
■ 佐藤(さとう)
# 砂(すな)は砂鉄の意味で、韓語では「セナ」といい、金(す)を「セ」という。
# 鉄を産出する国を「砂羅(すなら)」といい、この場合は砂を「さ」と読み、鉱山鍛冶集団は縄文時代末期より弥生時代にかけて渡来し、「砂藤(さとう)」を名乗って土着した。
# 朝鮮半島の「沙羅羅(さらら)」からの渡来人は「沙藤(さとう)」を名乗って土着した。
# 新羅を構成した「斯羅(しら)」からの渡来人は「斯藤(さとう)」を名乗って土着した。
# 「藤(とう)」は「唐(とう)」の佳字で、「唐(から)」は「韓(から)」を意味する。
# 新羅全体の渡来人は自らを新羅人といい、佳字の「佐藤」を名乗って土着した。
■ 田中(たなか)
# 百済(くだら)の「百(クン・く)」は、非常に大きな数字を意味し、「済(ダラ・なら)」は国や邑をあらわす。従って「百済」は「大国(おおくに)」「多国(おおくに)」のこと。
# 「多(おお)」は「タ」に転訛して、「大(た)」「太(た)」「多(た)」と読んで、「田」の佳字を使用した。
# 「中(なか)」は「那曷(なか)」で、「田名曷(たなか)」は多国の多族(おおぞく)の集落を意味する。「田口」「田島」「但馬」「田沼」「田辺」「田村」も同じ。
# 住居が田に囲まれた中にあったから「田中」とすれば、田中氏の少ない東国には田がなかったことになる。
※ 名字が各地で個々に興たという前提ならそうだが、何ヶ所から興きて、拡散したという前提ならそうとも言えないのではないだろうか?
■ 橋本(はしもと)
# 「橋本」は「土師本(はしもと)」の佳字で、「本(下)」は浦の意味で、土師氏集団の海洋民の集落を「橋本」という。因幡国八上郡橋本村(鳥取県米子市橋本?)は、土師本と書き、土師氏大江氏の渡来地で大江川(鳥取県西伯郡伯耆町を流れる日野川水系の河川流域)にある。
■ 林(はやし)
# 林族は上部(じょうほう)の恩津地方出身の木(もく)氏である。
# 隋書の百済伝に「国中大姓有八族。沙氏、燕氏、�併瓠⊃浸瓠�解氏、国氏、木氏、苗氏」とある。八氏は、五世紀頃の百済の支配層である。
# 林氏は百済王十八代直支王の後裔と唱え「新撰姓氏録」・河内諸蕃に「林連(はやしむらじ)、百済国人木貴公(もくきこう)の後也」、摂津国諸蕃に「林史(はやしのふびと)、林連と同祖・百済国木貴(もくき)の後也」、右京諸蕃に「林、林連と同祖・百済国木貴の後也」とみえる。
# 林氏は東国には少なく西国に多い。東国は小林氏が多い。
★ その他、こういった説に興味のある方は、書籍を読んでみてはいかがでしょうか?