福岡県の戦国史
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■ 福岡県の戦国史

# 応仁元年(1467年)に、応仁の乱が勃発すると、中国地方に加えて筑前国豊前国まで手中にしていた大内政弘が西軍の主力として上洛したことから、東軍に与した豊後国大友氏が豊前国に侵攻、また一時対馬国に逃れていた少弐頼尚も筑前国に守護として復帰した。しかし、京で乱が集結すると大内政弘は九州に渡って、豊前国・筑前国を取り戻して、以後少弐氏は肥前国に転じた。【出典

# 天文20年(1551年)に大内義隆陶晴賢の謀反で自害した。筑前国守護代であった杉興運も討ち死にした。陶晴賢は大友宗麟の弟の晴英を大内氏の跡継ぎとして迎えて形式上は大内氏の支配下にあったが、弘治3年(1557年)に大内義長毛利元就に滅ぼされると、大友宗麟が豊前国・筑前国・肥前国に侵攻して平定した。豊後国・筑後国・肥後国の三国に加えて、この三国の守護もつとめ、九州北部を平定した。【出典

# 大友氏は、天正6年(1578年)に義統が耳川合戦で島津氏に大敗。これを機に筑前国豊前国国衆が離反して、筑後国には肥前国の龍造寺隆信が進出してきた。その一方で、薩摩国から島津氏が北上し、島原で龍造寺隆信を降して筑後国を手に入れ、天正14年には筑前国の岩屋城の高橋紹運を滅ぼした。【出典

# しかし、天正15年に大友宗麟の要請を受けた豊臣秀吉が大軍を率いて九州に遠征、島津氏は豊臣秀吉に降った。秀吉は筑前国箱崎で国割りを行って、筑前国筑後国の一部は小早川隆景、筑後国の残りは立花宗茂や筑紫広門らに、豊前国は毛利勝信と黒田孝高に与えられた。【出典

# その一方、筑前国秋月氏豊前国高橋氏日向国に移されて、鎌倉時代から豊前国の有力一族だった宇都宮氏伊予国への移封を拒んで黒田孝高に滅ぼされた。また、筑前国にいた多くの国衆小早川氏立花氏被官になった。【出典

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