愛知県内の「水野」の名字の詳細
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■ 県内10位: 水野(みずの): 愛知県の水野家 

# 愛知県の水野家: 尾張国名古屋城下の鋳物師。

# 尾張国国衆清和源氏満政流。初代の重房は知多郡英比郷小河(愛知県知多郡東浦町)に住んで小河氏を称し、その子の重清は源頼朝に仕えて春日井郡山田荘の地頭になって、山田荘内の水野(愛知県瀬戸市)に住んで水野氏を称したのが祖という。実際には活動が判明しているのは室町時代の貞守からで、貞守は一色氏に従った。応仁の乱後には重原荘(愛知県知立市)に勢力を広げ、文明7年(1475年)には小河城を築いて本拠とし、さらに刈谷城(愛知県刈谷市)を築いた。惣領家は小河家で、他に庶流の刈谷家・常滑家・大高家などがあり、知多郡一帯を支配した。戦国時代には、忠政は松平氏と与して、忠政の娘の於大が松平広忠に嫁いで竹千代(徳川家康)を産んだが、兄の信元が織田信長と与して織田氏と対立したため離縁した。永禄3年(1560年)の桶狭間の合戦の直後に刈谷家は滅亡、嫡流の小河家の信元が刈谷領も併合して信長に仕えたが武田氏への内通を疑われて殺され、一旦は没落した。忠政の九男の忠重は徳川家康に仕え、のちに刈谷城で水野家を再興した。本能寺の変の後には織田信雄に属し、小牧・長久手の合戦ののちには豊臣秀吉に仕えた。天正18年(1590年)に伊勢国神戸4万石を経て、文禄3年(1594年)に、旧領の刈谷に戻った。関ヶ原の合戦の際には、徳川家に戻って、江戸時代には嫡流下総国結城藩主となった。【出典

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