静岡県内の「高橋」の名字の詳細
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■ 県内13位: 高橋(たかはし)

# 静岡県内では、伊豆をはじめ市町村内のランクで一桁に入る市町村は多く、中でも松崎町では1位。【出典

# 高橋は「天地をつなぐ高い柱」ということで神事を司るという意味といい、神主には高橋氏が多い。【出典】

# 高橋姓の発祥は、天武天皇の頃に、高橋朝臣を賜姓したのが始まりとされ、738年の「駿河国正税帳」に、遠江国少掾高橋朝臣国足の名が見え、797年の駿河介に高橋祖麻呂、斉衝元年の駿河守に高橋浄野の名が見えるので、静岡県内の高橋姓は1200年以上の歴史がある。この高橋朝臣は物部氏族で、高橋姓は安倍氏族という。静岡県内の高橋姓は、大宅氏流、藤原諸流、桓武平氏流佐々木氏流が見られる。【出典

# 庵原郡飯田村高橋(清水市・現静岡市)発祥の大宅氏流高橋氏は、大宅大三大夫光任の五代孫、高橋刑部丞光盛の後裔という。光任は源頼義に従い前九年役の時に、七騎武者の第一と言われ、その子の光房は源義家に仕え後三年役で武功をあげ、光房の子の光延は源頼朝のときに、駿河国高橋(清水市・現静岡市)、由比(由比町)西山の領主となり、その子の光盛が高橋刑部丞を称した。【出典

# 藤原氏流高橋氏入江氏の分流で、大宅氏流と同じ庵原郡高橋(清水市・現静岡市)発祥で、遠江権守高橋維頼の後裔、大九郎雅弘の孫の弥太郎維延は鎌倉幕府御家人となって高橋村に住んで、その子の左衛門尉維行は承久の乱の武功により、高橋村を領して高源寺を開基した。六代孫の式部丞行綱は鎌倉北条氏の滅亡後に高橋村に帰り、その子の中務丞行風は今川範氏に仕え、以後、維宗、維秀、維攻と続き、主水介維攻は今川氏の滅亡後、駿府在城の徳川頼宣に仕えた。【出典

# 桓武平氏流の伊勢守平盛国の孫の讃岐守高橋左衛門尉盛綱は1185年の平家の滅亡後に、駿河国持舟郷(静岡市)に逃げ、この地を開拓した。後裔の半之丞平祐経のときに、領主の関口親永と確執を生じ、甲斐国に転じたという。【出典

# 城飼郡高橋郷(小笠町)に住んで高橋姓を称した遠江高橋氏は維頼の後裔という。【出典

# 文明年間に、地頭方村(相良町)に住んだ高橋氏は今川義忠に属して討ち死にした。新野村(浜岡町)の高橋氏はその後裔と伝える。【出典

# 浜名郡高塚村(可美村)の高橋氏の先祖に永享2年、高橋常家や大永7年に雨鶴寿丸がおり、永禄年間に、西遠江の高橋氏は今川氏に仕えたが、永禄六年に離反して徳川家に仕えた。【出典

# 藤原氏流の相良三郎長頼の三男の高橋左近将監頼之は三河国高橋庄または城飼郡高橋庄を領して高橋氏を称し、その子の左近将監頼季は源実朝に仕え、承久の乱で討ち死にした。その後、頼春、頼周、頼方、定頼、憲頼、頼次とあり、越前守頼次は小田原城主の大森氏に仕えたが北条早雲に攻められて大森氏が滅亡し、その子の左馬助頼元は伊豆国雲見(松崎町)に住んで、北条早雲に属した。以後、綱利、氏頼、頼重と続き、左近右衛門頼重は、天正18年の北条氏の滅亡後、駿河国に転じ、氏頼の弟の将監頼元は今川義元に仕え、その子は彦右衛門頼之とある。しかし、新編武蔵風土記稿では、伊豆国雲見(松崎町)の高橋氏は、宇多源氏佐々木氏族と伝え、京極左衛門尉高氏の子の左馬助頼方が嘉暦年間に、三河国高橋に住んで高橋氏を称し、鎌倉幕府の七代将軍の惟康親王、八代将軍の久明親王に仕え、その子の兵部少輔定頼と将監基頼父子の二代は関東管領上杉氏に従ったが、上杉憲忠の乱で基頼は浪人し、子の将監頼元が延徳四年に、北条早雲に従った。また、一説では延徳以前に、伊豆の堀越御所(韮山町)の足利氏に仕えたともいう。これより、綱利、氏頼と代々北条氏に仕え、のちに北条氏の家門に列し、雲見を知行して伊豆衆二十一家の一つとなり、北条水軍の将になったが、天正18年に綱利、氏頼父子は北条氏の滅亡に殉じ、氏頼の子の政信、政重兄弟は八王子城で戦死、政信の遺児の兵部丞吉次は母とともに逃れ、武蔵国に転じたとある。【出典

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