阿倍氏
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■ 阿倍氏(あべ うじ): 「あべ」の名字の由来

# ルーツ: 武渟川別(たけぬなかわわけ)、大彦命の子

# 拠点: 大和国十市郡

# 特徴: 強固な外戚関係を築くが没落

# 役職: 上級官僚→陰陽職

※ 孝元天皇の皇子の大彦命(おおひこのみこと)を祖とす。

・ 安倍とも書いた。

・ 姓(かばね)は「臣」

・ 大和国十市郡安倍を本拠としたと言われているが、伊賀国阿拝郡から移動してきたようだ。伊賀国一宮は敢国(あへくに)神社。従って、阿倍氏は伊賀の出ではないかと言われている。つまり、大和国十市郡安倍をルーツとして阿倍氏ができたわけでは無く、阿倍氏が本拠地にしたことにより大和国十市郡安倍という地名ができた。

【結論】阿倍氏は、伊賀国阿拝郡・名張郡から大和国の宇陀郡に移り住み、後に十市郡の地を本拠地として、その地が安倍と呼ばれるようになった?

・ 阿倍氏全盛期、東北地方の蝦夷とヤマト朝廷は蜜月状態だった。しかし、阿倍氏が衰えると蝦夷征討が始まった。

・ 古代豪族の阿倍氏は大嘗祭で、吉志舞(きしまい)を奏するほど重要な位置にいた。

# 阿倍(あべ)

・ 大彦命後裔氏族中の最有力氏。大彦命の子の建沼河別命を祖とし、安倍ともいう。

・ 大和国十市郡安倍(奈良県桜井市阿部)をルーツとする。

・ 姓ははじめは臣、天武天皇13年(684年)の八色の姓の制定に際し朝臣を賜った。崇神天皇の時代に、四道将軍として大彦命を北陸道へ、建沼河別命を東海道へ派遣したと「古事記」や「日本書紀」にみられ、阿倍氏の管掌した丈部(はせつかべ)の分布が広く東国や北陸にみられ、同族の膳・阿閉・宍人などの諸氏の勢力もこの地方に及んでいるので、大和政権の東国や北陸の経営に阿倍氏を中心とする大彦命後裔が大きく関与していたようだ。

・ 阿倍の氏名は「饗(あえ)」に由来する可能性があり、阿倍氏は軍事・外交面でも活躍しており、対蝦夷や対朝鮮の軍事行動に従事した武将に欽明天皇の時代に阿倍臣、斉明・天智天皇の時代に阿倍比羅夫などがみられる。

出典

# 安倍(あべ) 

(1) 大彦命後裔の中央豪族の阿倍(安倍)氏に対し、奈良時代の後期以降に、賜姓によって阿倍(安倍)の氏(うじ)を名乗った陸奥の在地土豪。

・ 賜姓の対象となったのは、白河、磐城、磐瀬、安積、標葉、会津、信夫、伊具、柴田、色麻、賀美の陸奥国の南の諸郡の郡領級有力者で、賜姓は神護景雲3年(769年)、宝亀3年(772年)、承和7年(840年)、承和11年(844年)、承和15年(848年)、貞観12年(870年)の六度にわたり、阿倍信夫臣、安倍柴田臣、阿倍会津臣、阿倍磐城臣の複姓が与えられている。旧氏姓は丈部、大田部、矢田部、丈部臣、丈部直、陸奥、陸奥臣、陸奥標葉臣、奈須直、磐城臣で、丈部がもっとも多く、初期の賜姓は部姓者に限定された。

・ 阿倍氏はかつて丈部を管掌した伴造中の一氏であったから、これらの賜姓は大化前代から存在した阿倍氏と陸奥国の南半部の土豪層の、部民制的支配関係を基礎として、辺境豪族の中央貴姓化がすすめられたことを意味する。

・ 前九年の役の奥六郡の俘囚安倍頼時の一族は、複姓賜姓者の子孫である可能性があるが、頼時のと称する安藤氏や藤崎氏の系図が、頼時ら安倍氏を中央阿倍氏の分かれとすることは、複姓賜姓者の間に、家系を中央阿倍氏の系譜に結びつける傾向があったことを指し示す。

(2) 平安時代中期の天文博士の安倍晴明を始祖とする陰陽家。姓は朝臣。暦道の賀茂氏に対し、天文道を世襲し、この二氏で陰陽道を分掌した。

・ 安倍晴明の出生に関しては、讃岐国の出身など諸説あり、この氏は布勢氏系阿倍氏とも、別系統と思われる。

出典

# 古代の阿倍氏は、孝元天皇の皇子の大彦命の子孫で、大和国または伊賀国出身の豪族と言われる。この氏は倉梯麿の時に大化の改新の功労で左大臣に任命されたが、その後衰退したが、後に阿倍比羅夫が海上で勢力を持ち、蝦夷の経営につくした。【出典

# 安倍晴明安倍氏嫡流戦国時代には土御門家を名乗った。土御門家の分家に倉橋家がある。【日本人なら知っておきたい 名家・名門 武光誠 河出書房】

# 阿倍仲麻呂は中務大輔船守(なかつかさだいふふなもり)の子。中務大輔は中務省の次官で正五位。つまり阿倍仲麻呂は中級上位の官吏の出。【日本史に出てくる 官職と位階のことがわかる本 「歴史読本」編集部編】

姓:真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連。直・臣・使主・君・公などの詳細

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