千葉県内の「千葉」の名字の詳細
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■ 千葉(ちば): 千葉県の千葉家 

# 千葉県の千葉家: 桓武平氏の出で、下総国千葉郷(千葉県千葉市)をルーツとする。本家は、戦国時代に小田原の北条氏に従ったが、北条氏が滅亡後に没落した。【出典

# 下総国戦国大名桓武平氏の出。平安時代後期に、平良文の孫の忠常が上総介・下総介になって私領を開発、それを鳥羽天皇に寄進して千葉荘(千葉市)が成立し、自らは千葉氏を称した。常胤は保元の乱では源義朝に従い、治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると下総国の国府で源頼朝の軍に合流した。以後、一族は源平の合戦では源氏に従って下総国の守護になり、代々下総国の守護職を世襲した。また、常胤の6人の子は、嫡男の胤正が千葉氏を継いだほか、二男の師常は相馬氏、三男の胤盛は武石氏、四男の胤信は大須賀氏、五男の胤通は国分氏、六男の胤頼は東氏の祖となり、一族合わせて千葉六党といわれ、鎌倉幕府で大きな力をもった。享徳の乱では山内上杉氏に属した嫡流の胤直・宣胤父子と、古河公方の足利成氏に属した馬加康胤(胤直の叔父)が対立、康正元年(1455年)に康胤が胤直父子を討って千葉宗家を継いだ。しかし、山内上杉氏の上杉房顕は、胤直の甥にあたる実胤・自胤兄弟を擁立、市川城主にしたことから千葉氏は二つに分裂した。翌年、市川城は足利成氏によって落とされ、実胤は武蔵国の石浜城、自胤は武蔵国の赤塚城に転じた。実胤は寛正年間頃に出家して美濃国に転じ、自胤が両城を有して、以後は武蔵千葉氏になった。嫡流はのちに本拠地を佐倉城に移し、胤富のころに最盛期を迎えた。その後は、北条氏に属したが、天正13年(1585年)に邦胤が家臣に殺されて事実上滅亡し、跡を継いだ重胤は幼少だったので、重臣の原氏が政務の実権を握り、天正18年(1590年)の豊臣秀吉小田原攻め北条氏とともに滅亡した。【出典

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