細川家の人々
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■ 細川勝元(ほそかわかつもと)

■ 細川重賢(ほそかわしげかた)

■ 細川忠興(ほそかわただおき)

■ 細川ガラシャ

■ 細川忠利(ほそかわただとし): 肥後国熊本藩54万石の細川家は、豊臣秀吉の時代には丹後国の宮津12万石だったが、関ヶ原の合戦の後には、豊前国小倉藩39万9000石を経て、寛永9年(1632年)に加藤家改易されたあとの熊本藩主になった。このころ、当主だった忠利は小倉にあり、父で隠居していた細川忠興が江戸にいて、手紙のやりとりをしていたので、その経緯を知ることができる。加藤家の改易の後、大名がどのように配置されるかについては、いろいろな噂があった。肥後国に動かされる可能性があったのは、細川家のほかに長州藩毛利家、福岡の黒田家などで、尾張藩紀州藩広島藩仙台藩も絡む可能性があった。御三家まで入っているということは、西国管領的な役割を期待してというのもあるが、徳川家光が尾張や紀州を警戒していたためだろう。細川忠興としては、肥後国は表高ほどに豊かではないとの情報を得て、毛利か黒田が肥後国に転じ、細川家が長州か筑前に入ることを期待した。その後、小倉には九州において初の譜代大名だった小笠原家が入ったが、細川家とは親戚でもあり、気心がしれていて安心だった。【出典

■ 細川藤孝(ほそかわふじたか): 1534−1610年。幽斎の名で知られる。足利義輝が暗殺されると、その弟の義昭を保護して、室町幕府再興を企てた。しかし、義昭が織田信長と対立してからは信長方についた。その後、明智光秀の家臣になった。【出典

■ 細川頼之(ほそかわよりゆき): 1329−1392年。武将。足利尊氏・足利義詮のもとで功を成し、四国を領有した。管領になって、幼少の足利義満を補佐して足利政権の基礎を築いた。康暦の政変で一旦は失脚したが復権した。【出典


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