細川家
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■ 細川家(ほそかわけ): 「細川」の名字の由来

# 代表家紋

# 三河国額田郡細川郷(愛知県岡崎市細川)をルーツとする。

# 清和源氏義家流足利氏: 足利義康の子の義清が細川郷に住んで細川氏を名乗った。

# 鎌倉時代は幕府の御家人を務め、足利尊氏の挙兵に従って、室町幕府では八カ国の守護を務め、後に管領となった。
頼之の後の細川家はいくつもの分家に分かれた。

【京兆(けいちょう・右京太夫の唐名)家(上屋敷)】
・ 細川家の嫡流となった頼元が右京大夫となったため「京兆」家と言われた。子孫は、摂津・丹波・讃岐・土佐の四カ国の守護を世襲し、管領を務めた。後に、豊臣秀吉に追放されて滅亡。
・ 細川家の嫡流の京兆家の子孫は、江戸時代には常陸国宍戸藩家老。【日本史再検証 名家の「その後」 監修:森岡浩 別冊宝島】

【阿波家(下屋形家)】
・ 1381年に阿波国守護になった義之が祖で、阿波国守護を世襲で務めた。後に一色氏を討って三河の守護も務めたが、応仁の乱後衰退した。

【淡路細川氏】
・ 1336年に淡路国守護になった師氏が祖で、淡路国守護を世襲で務めた。1519年に三好之長に破れて滅亡。

【備中細川氏】
・ 1393年に備中の守護になった満之が祖で、備中の守護を世襲で務めた。1515年に京兆家が備中の守護を務めるようになり断絶。

【和泉上守護細川氏】
・ 1408年に和泉国の半分の守護になった頼長が祖で、1500年に畠山尚順に破れて没落したが後に細川幽斎(肥後細川家)が再興した。
・ 肥後細川家の別姓は長岡といい、妾腹の子などは長岡を名乗った。
・ 熊本藩主の細川家は、和泉国上守護家(細川刑部家)の出。【日本史再検証 名家の「その後」 監修:森岡浩 別冊宝島】

【和泉下守護細川氏】
・ 1408年に和泉国の半分の守護になった基之が祖で、1531年に滅亡。

【典厩(てんきゅう・右馬頭の唐名)家】
・ 管領の細川満元の三男の持賢が祖。

【奥州細川家】
・ 顕氏の養子の業氏が祖で、陸奥守を務めたが、戦国末期に滅亡。

宇土藩主の細川氏】
・ 細川幽斎(藤孝)の孫の立孝の子の行孝が、肥後細川家から分地(3万石)した。

【谷田部藩主の細川氏】
・ 関ヶ原の合戦後の1601年に幽斎(藤孝)の次男の興元が下野国芳賀郡で1万石を与えられたのが祖。

熊本藩の家老の細川氏】
・ 細川忠興の長男の忠隆の子孫で、長岡を称して熊本藩の家老を務めた。明治維新後細川姓に戻り男爵になった。評論家の細川隆元や甥の隆一郎はこの家系。

■ 細川家
・ 清和源氏の足利氏の庶流で、足利義康の曾孫の広沢義季が三河国細川(愛知県岡崎市)に住んで細川氏を称した。【戦国大名「御家」系譜事典 宝島社 監修:森岡浩】 

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