内藤家
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu 「家」のTop
スポンサーリンク
スポンサーリンク

■ 内藤家(ないとうけ): 「内藤」の名字の由来

・ 内藤家は藤原秀郷末裔で、鎌倉幕府の御家人の子孫が応仁時代に三河国に移り住んだ。

・ 内藤家には三流あるが、その祖は内藤右京進義清

@ 上野村の弥次右衛門家(内藤弥次右衛門家長。子孫は日向国延岡藩7万石など。)
A 姫小川村の三左衛門家(内藤豊前守信成。子孫は越後国村上藩5万石。)
B 芦谷村の甚五左衛門家(内藤甚五左衛門。子孫は信濃国高遠藩3万3千石など。)

@ 上野村の弥次右衛門家
内藤家長は家康の関東入国後、上総国佐貫2万石、関ヶ原の戦いの前哨戦の伏見城の戦いで戦死。嫡男の左馬助政長は1622年に陸奥国磐城平藩7万石、子孫は日向国延岡藩7万石。分家には、陸奥国湯長谷藩1万5千石、三河国挙母藩2万石。

A 姫小川村の三左衛門家
三左衛門の祖の内藤豊前守信成(初名・三左衛門)は、鴨田久右衛門景信と内藤右京進の娘の間に生まれ、内藤弥次右衛門家長の養子になったが、家長に実子が生まれたため、分家を興した。内藤豊前守信成は13歳で、松平元信(後の家康)に拝謁を許され、一字を賜って信成と称した。信成は徳川家康の関東入国で伊豆国韮山1万石を賜り、1601年に駿河国府中藩4万石、後に近江国長浜藩に転封。子孫は、摂津国高槻藩陸奥国棚倉藩駿河国田中藩を経て越後国村上藩5万石。

B 芦谷村の甚五左衛門家
上野村の内藤家の分家と言われるが不詳。内藤忠郷の長男の甚五左衛門忠村の子孫は紀伊徳川家の家臣となった。次男にの四郎左衛門正成は、徳川家康の関東入国後に武蔵国埼玉郡5千石。四男の仁兵衛忠政の長男は徳川秀忠の守り役となり、徳川家康の関東入国後に相模国で5千石、江戸時代には2万1千石、子孫は信濃国高遠藩3万3千石。忠政の次男の忠重は徳川秀忠に仕え、徳川家光の守り役になり、1622年に旗本1千石。1625年に常陸国真壁1万石、後に志摩国鳥羽藩3万5千石。忠政の四男の政次は徳川家光に仕え、武蔵国で5千石、子孫は信濃国岩村田藩1万5千石。

【出典: 徳川家臣団の謎  菊地浩之 角川選書】

# 内藤家(ないとうけ・周防国): 家紋「内藤三つ葉藤紋

・ 長門国厚狭郡荒滝(山口県宇部市東吉部荒滝)を本拠地とした。

・ 藤原道長の子孫が周防国に転じ、室町時代には長門国の守護代を務めた。大内氏の重臣から毛利氏に仕えた。子孫は長州藩士。【戦国大名「御家」系譜事典 宝島社 監修:森岡浩】

# 内藤家(日向国延岡藩
・ 内藤義清が松平清康に仕えて、岡崎五人衆の一人。初代の内藤家長は義清の孫で、三河の一向一揆の鎮圧や長篠の戦いで活躍した。小田原攻めでは先鋒をつとめ、上総国佐貫2万石。しかし、関ヶ原の戦いの前哨戦の伏見城の戦いで、鳥居元忠らと討ち死に。家長の嫡男の政長は元和8年に陸奥国磐城平藩7万石へ。その後、財政逼迫による一揆がもとで、日向国延岡藩7万石に転封。幕末には幕府軍から朝廷側に転じ、明治時代には子爵。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

# 内藤家(陸奥国湯長谷藩
・ 内藤家の宗家の三代忠興の三男の政亮を祖とする。幕末には幕府側に属して新政府軍と戦った。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

# 内藤家(三河国挙母藩
・ 内藤家の宗家の三代忠興の弟の政晴を祖とし、陸奥国泉藩から上野国安中藩、三河国挙母藩と転じた。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

# 内藤家(越後国村上藩
・ 内藤家の本家の初代の家長の父の清長の養子となった信成を祖とするが、信成は松平広忠の子で家康の異母弟にあたる。伊豆国韮山藩1万石を与えられ、駿河国府中藩4万石から、近江国長浜藩4万石へ転じた。その後、摂津国高槻藩4万石、陸奥国棚倉藩7万石、駿河国田中藩5万石と転じ、越後国村上藩5万石で落ち着いた。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

# 内藤家(信濃国高遠藩
・ 内藤家の本家の初代の家長の伯父の忠郷を祖とする。高遠藩の祖となった清牧の母親は、摂津国富田林藩主の内藤重頼の妹だったため、重頼の養子となり3万3千石を継いだ。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

スポンサーリンク
スポンサーリンク
統計表示