陸奥国
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# 旧東山道。

# 太閤検地での石高: 167万石。【戦国大名県別国盗り物語 八幡和郎 PHP文庫】

# 延喜式による国力順位(納税額による)【本当は面白い「日本中世史」 八幡和郎】。陸奥国は2位。

# 「陸奥」の名字

# 現在の福島県宮城県岩手県青森県。ただし、秋田県の一部も含む。

# 陸奥国奥六郡: 岩手郡、志波郡、稗貫郡、和賀郡、江刺郡、胆沢郡。

# 養老2年(718年)、陸奥国から「石城(いわき)国」と「石背(いわせ)国」が一時分離した。地理的に、現在の浜通りの「石城国」は常陸国と交流が有り東海道に、中通りと会津の「石背国」は、下野国と交流があったので東山道に組み込んだということでしょうね。

# 明治維新に、陸奥国(りくおう)・陸中国(りくちゅう)・陸前国(りくぜん)・岩代国・磐城国の5つに分割された。

# 35郡193郷。

# 蝦夷国を日高見の国といい、今の北上川流域地方を指していたという。北上川も、昔は「日上」と書き、「ひなかみ川」とも言った。「日高見川」。

# 古事記には「道奥」の表記あり、日本書紀には概ね「陸奥」の表記。和名抄では「陸奥(みちのく)」。

# 福島県の双葉は「楢葉郡」と「標葉郡」の二つの「葉郡」に由来する。

# 続日本紀: 「相模、上総、常陸、上野、下野、武蔵六国の富民千戸を陸奥に移す」。

# 福島県の浜通りは古代には石城国造(いわきのくにのみやつこ)に支配されていた。

# 続日本紀に「陸奥国丹取(にとり)郡を建部」という記述がある。名取郡のこと。

# 1400年に斯波家奥州探題に任命され、名生城(みょうじょう・宮城県大崎市)を居城とした。そのため、「大崎」氏を称した。斯波家兼の次男の兼頼は山形盆地に移り住み「最上」氏を称し羽州探題を称した。

■ 奥六郡: 陸奥国の胆沢郡、江刺郡、和賀郡、稗貫郡、紫波郡、岩手郡。奥六郡の主は安倍氏に始まり、前九年の役後には清原氏、そして後三年の役の後には藤原氏となった。安倍氏の父祖が、陸奥国の国府に赴任した中央貴族の一員だった可能性が指摘されているが、その繁栄には蝦夷系の豪族を抜きには語れない。【日本古代史地名事典 雄山閣】 

■ 安積(あさか)郡: 陸奥国の郡名。設置は大化の国郡制定時と推定され、初見は「続日本紀」。阿尺・安稜(あさみ)とも書き、「和名抄」では阿佐加と訓す。【出典
※ 現在の福島県郡山市付近。安積(あさか)とは、「あすか(崩壊地)」に由来するといわれる。

■ 安達(あだち)郡: → 「安達

■ 胆沢郡(いさわぐん): 岩手県。奈良時代より陸奥国にみられる郡名。中世は伊沢郡とも書く。

・ 胆沢郡: 「いさわ」は「いささわ(砂沢)」がつまったもの。【出典

■ 田舎郡(いなかぐん): 陸奥国(青森県)
・ 南北朝期から江戸初期に見える郡名。津軽半島から青森湾、津軽平野などにかけた広い地域に位置する。郡名は広大な未開地を抱える僻遠の地を意味すると思われる。【出典

■ 磐城(いわき)郡: 福島県。陸奥国の郡名で岩城・石城とも書く。初見は「続日本紀」。「和名抄」は訓を「伊波岐」とする。地名の由来については、鍋田三善の「磐城志」は「岩の脇」または「湯涌(ゆわき)」としているが、「地名辞書」は「石木(いわき)(炭化植物)」の出土によるとの説をもっている。【出典

■ 鹿角(かづの)郡: 陸奥国(秋田県)の郡名。古代には上津野(かづの)村という蝦夷地扱いで、出羽国秋田城の管轄下にあった。【出典

■ 刈田(かった)郡: 陸奥国(宮城県)の郡名。苅田郡とも書き、「和名抄」には「葛太」とある。

■ 加美(かみ)郡: 宮城県(旧陸奥国)加美(かみ)郡は、埼玉県(旧武蔵国)の賀美(かみ)郡に由来する。【地名でたどる埼玉県謎解き散歩 新人物文庫】

■ 栗原郡(くりはらぐん): 陸奥国。栗原郡の始まりは伊治城にある。「続日本紀神護景雲元年11月(10月か)29日条に「陸奥国栗原郡を置く。本是伊治城也」とあって、栗原郡の建郡が神護景雲元年であることを告げるとともに、その起こりが伊治城にあることを示している。伊治城は同書同年10月15日条に、3旬に満たずして造り終わったとあるから、この年9月頃完成し同年のうちに、栗原郡に改まったことになる。ただ、この栗原郡の成立については以下のような問題がある。すなわち郡制施行があまり早過ぎること、この後も伊治村という呼称が残ること(神護景雲3年6月11日・延暦11年正月11日)、栗原郡大領のはずの伊治公呰麻呂(いじのきみあざまろ)が上治郡大領とされ(宝亀11年3月22日)、上治郡は上伊治郡の意味と考えられること、などの諸点である。神護景雲元年のあと、栗原郡が見えるのは、延暦23年11月7日で、この時新たに栗原郡内に駅を3駅置いたとある。このあと栗原郡は、「続日本後紀承和4年4月21日にも内郡の最北という形で見える。伊治城が郡に移行するのは、以上のことから、神護景雲元年よりは少し遅れ、その最初の郡号も伊治郡であったと考えられる。しかし延暦23年までには栗原郡と改まっていた。伊治が栗原に改まったのは、伊治を「これはる」とよみ、それが「くりはら」になったとする説が江戸期からある。最近も多賀城址出土の漆紙文書に「此治城」と読める文字があり、これは「コレハル城」で伊治城に当たるのではないかという意見も出ている。しかし「此治城」は「比治城」かも知れず、まだ問題がある。【出典

■ 黒川(くろかわ)郡: 陸奥国の郡名で黒河郡とも書く。多賀城のすぐ北に置かれ、多賀以北「奥郡」の起点をなす郡として、古来特別な意味を持った郡である。黒川郡の初見は「続日本紀天平14年正月23日条である。中世黒川郡は、せまく黒川郡と呼ばれる地域と大谷保と呼ばれる地域に分かれる。黒川晴氏を滅した後、慶長末年、伊達政宗はその子河内守宗清を黒川一円の郡主(3万石)に封じた。【出典

■ 紫波郡(しわぐん): 岩手県。古代より陸奥国にみられた郡名。古代〜現在の郡名。古くは斯波郡。城は志波城と書き、中世・近世には志和郡とも書いた。【出典

■ 多賀郡(たがぐん)・多賀郷(たがごう)

■ 伊達郡(だてぐん): 陸奥国(福島県)の郡名。「いだて」ともいい、中世には「いたて郡」と呼称していた。郡衙は桑折町上郡山・下郡山の地と推定され、桑折の地名も郡を指すものであろう。【出典

■ 田村(たむら)郡: 中世以降に陸奥国にみられる郡名で、元々は南北朝時代からみられる安積郡田村荘に由来し、田村郡は江戸時代初期に成立したもよう。鎌倉時代には田村氏藤原姓、秀郷流)が荘司を務めていたいた模様。

■ 登米(とめ・とよま)郡: 陸奥国(宮城県)
・ 北上川中流域に位置する。「続日本紀宝亀5年10月4日条大伴駿河麻呂の蝦夷征定の記事に見える「遠山村」とある遠山が「とよま」になったかとされている。登米は「とよま」「とよめ」「といま」などとも読まれているが、後世、郡については「とめ」、町については「とよま」と読むならわしになっている。【出典

■ 名取(なとり)郡: 宮城県。古代より陸奥国にみられる郡名。

■ 糠部(ぬかのぶ)郡: 青森県・岩手県。旧陸奥国。青森県東部の三戸郡・上北郡・下北郡と岩手県北部の二戸郡・九戸郡・岩手郡葛巻町などを含む広大な領域に及ぶ。この地域は、平安期の弘仁年間には都母村・爾薩体村という2つの蝦夷村として見え、前九年の役に際しては、蝦夷の族長安倍富忠の支配下にあった?屋・仁土呂志・宇曽利の地域にあたると思われる。【出典

・ 糠部郡(ぬかのべ): この辺りには崖崩れが多く見られ、崩れた地形を意味する古語の「ぬか」と「戸」があわさって、「ぬかのべ」となった。【出典

■ 平賀(ひらが)郡: 

■ 閉伊(へい)郡: 岩手県。古代より陸奥国にみられる郡名。古代は、閇伊・幣伊・弊伊などとも書いた。閉伊の地名は、ヘ(辺)で辺境、端の地を意味するものか。【出典

■ 松浦郡(まつらぐん): 陸奥国(岩手県)
・ 戦国期の広域地名。葛西領に存在したとされるいわゆる葛西七郡の1つ。この俗称の成立は戦国末か、あるいはむしろ近世初期と考えられる。その昔、郡内上葉場村の高山掃部長者の妻が変身した大蛇にささげる生贄として、肥前国松浦郷の佐代姫が買いとられてきたという。松浦郡の名称は、この松浦佐代姫の伝説とも関わるか。【出典

■ 宮城(みやぎ)郡: 陸奥国の郡名。「和名抄」に「美也木(みやき)」とよむ。宮城県名の起こりになった郡名。宮城の郡名の起こりについては、古くは、塩竈神社(宮)と多賀城(城)によって説明し、近代は屯倉(みやけ)(大和朝廷直轄領)によって説明してきたが、最近では、多賀城が「陸奥の遠(とお)の朝廷(みかど)」(東北地方朝廷)であることから、「みちのく府城」の意味で「宮城」と呼んだと考えている。宮城郡の文献上の初見は、「続日本紀天平神護2年11月7日である。 【出典
# 宮城郷(みやぎのごう): 平安時代に陸奥国みられた郷名で、「和名抄」宮城郡十郷の1つ。名称から宮城郡衙の置かれた所と思われる。その範囲は宮城野周辺から、現在の仙台市の中央部をも包んだものと考えられる。

■ 亘理(わたり)郡: 古代から陸奥国にみられる郡名。曰理郡とも書く。「和名抄」に「和多里」とよんでいる。その意味は「渡り」であって、「逢隈(おうくま)の渡り」(阿武隈の渡り)を指し、ここで東海道は阿武隈川を渡ることになるために、郡名としたのである。東海道はここでまったく北を限る。石城(いわき)国(磐城国)もここをその北限とした。南は福島県相馬郡(旧宇多郡)、東は仙台湾南辺、北は名取郡、西は伊具郡。ほとんど福島県浜街道と一体の風土をなしている。
・ 中世: 千葉介常胤の三男三郎胤盛が伊具・宇多・亘理3郡を賜ったという伝えは近世のものであるが、しかし、千葉一族が東海道(浜海道)に所領を有し、相馬氏が行方、武石氏が亘理・宇多方面を分割領有したことは確かである。
・ 亘理郡は武石亘理氏の旧領でもあること、相馬氏とも境を接する藩境でもあることから、ここには政宗麾下中片倉小十郎と並び称された伊達安房成実を2万3000石で封じた。【出典
# 亘理(わたり): 宮城県亘理郡亘理町。地名は阿武隈川を渡る渡しの意味。
・ 曰理郷: 平安時代にみられる郷名。「和名抄」亘理郡五郷の1つ。
・ 亘理(わたり): 戦国時代に陸奥国にみられた地名。元亀元年4月5日条には伊達輝宗中野宗時・牧野久仲を攻めるにあたり、輝宗の叔父亘理元宗その子重宗も亘理城を出て、刈田郡宮の河原に参会したとある。その記事に、亘理氏千葉常胤の三男武石胤盛の子孫で、初めて奥州亘理郡を領し亘理城に住したので亘理を氏としたとある。武石氏が亘理郡を領していたことは鎌倉期よりはっきりしており、この記事によって居城が亘理郡内にあったことも知り得る。【出典
# 古代、宮城県北部は上治(かみはり)郡と言った。栗原郡はここから出た?
上治郡を領していたのは伊治(これはるの)氏。伊治氏は俘囚だった。


# 続日本紀文武天皇元年(697年): 冬10月19日: 陸奥(みちのく)の蝦夷(えみし)が、その地の産物を献上した。

# 続日本紀文武天皇2年(698年): 10月23日: 陸奥(みちのく)の蝦夷(えみし)が、その地の産物を献上した。

# 続日本紀大宝元年(701年): 3月15日: 追大※の凡海(おおしあまつ)宿禰あら鎌を陸奥に遣わして、金の清廉をさせた。

# 続日本紀の715年に、相模、上総、常陸、上野、武蔵、下野の六国の富民千戸を陸奥に配る、とある。【日本の中の朝鮮文化(12)陸奥・出羽ほか 金達寿 講談社】

# 類聚国史の巻159田地上によると、天長元年(824年)五月に新羅人辛良、金貴賀、良永白ら54人を陸奥国に移して口分田を給したとある。また日本三代実録の貞観12年(870年)2月に、太宰府管内に住んでいた潤清、宣堅ら30人や前から管内に住んでいた新羅人らをあわせて陸奥国の空地に移せという勅令がでて、9月に彼らを武蔵・上総・陸奥に移したとある。【日本の中の朝鮮文化(12)陸奥・出羽ほか 金達寿 講談社】

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