江戸時代の雑学
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江戸幕府の組織 江戸時代の生活
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■ 1635年(寛永12年)
・ 鎖国令をうけて、幕府は諸大名に「500石積み以上の船をつくること」を、禁じた。

■ 「江戸300藩県別うんちく話」より
 ほう、江戸時代の各藩の領地には飛び地も多かったとは聞くが、そうだったのかぁ。分かり易い所では、江戸屋敷や京屋敷の賄い費用のための領地なんかは江戸や京の近くにあった可能性が高いからなあ。
・ 彦根藩は世田谷に領地を持ち、井伊直弼の墓は世田谷区の豪徳寺にある。
・ 滋賀県八日市の南半分は伊達家の領地。
・ 文献上、日本最初の惣(ムラ)は13世紀に近江八幡市奥島で成立した。惣は今でいう自治会。市町村のルーツともいわれる。
・ 検地して石高が増えたので支藩(新田藩)を作ったが、本藩の跡継ぎ養成の目的もあった。
・ 室町時代の尾張国守護は斯波氏で、守護代織田氏。越前の守護も斯波氏で守護代は朝倉氏。
・ 幕末には本多家が九大名あった。三河岡崎、播磨山崎、陸奥泉、近江膳所、伊勢神戸、三河西端、駿河田中、信濃飯山。もう一つはどこだ?
・ 越後長岡藩などの牧野家は、三河国吉田(豊橋)の土豪の出。
・ 安土城の遺構はあるが、痕跡はない。安土を本拠地とした豊臣秀次が城下町毎、近江八幡に移転した。
・ 滋賀県甲賀市。忍者関係以外は「こうか」読み。
・ 武田氏は鎌倉時代から甲斐国守護をつとめた。
・ 信濃国守護小笠原氏
・ 高杉晋作の祖先の出は、備後国双三(ふたみ)郡高杉村。
・ 江戸城の住所?: 武蔵国荏原郡桜田郷
・ 栃木名物の「かんぴょう」は、鳥居家が前任地の近江国水口名産の「かんぴょう」を下野国(壬生)に持ち込んだもの。
・ 平将門の乱の中心となったのは下総国岩井。
・ 下館: 平将門の乱の平定時に藤原秀郷が築いた拠点。

 江戸時代
・ 江戸時代は資源循環時代と言われるが、今は大量消費大量廃棄物生産時代。物が売れないと経済が冷えるというが、物が売れればゴミもでる。物を大切にする。どちらがいいのか?

■ 江戸時代と現在の位置関係
米沢藩邸(法務省)
彦根藩邸(憲政記念会館)
広島藩邸(総務省・国土交通省)
福岡藩邸(外務省)
松代藩邸(経済産業省別館)
松江藩邸(衆・参議長公邸)
和歌山藩邸(赤坂御所、迎賓館)
・ 名古屋藩邸(防衛省)
水戸藩邸(偕楽園)
前橋藩邸(Hオークラ)
大垣藩邸(ANAホテル)
備中松山藩邸(帝国ホテル)
土佐藩邸(旧都庁、東京国際フォーラム)
延岡藩邸(霞が関ビル)
小田原藩邸(世界貿易センター)
川越藩邸(旧・日産自動車、現・読売新聞社)
岡山藩邸(丸ビル)
小倉藩邸(産経新聞社)
鳥取藩邸(帝国劇場、東京會舘)
庄内藩邸(日経新聞)
明石藩邸(国立劇場)
・ 一橋邸(丸紅)
・ 佐賀、長州、南部藩邸(日比谷公園)
彦根藩邸(明治神宮)
高遠藩邸(新宿御苑)
宮津藩邸(旧・安田庭園)

■ 江戸時代の貨幣
一両は江戸時代前期には4千文だったが、明和年間(1764年〜71年)には5千文、幕末には1万文となった。【お江戸の意外な生活事情 衣食住から商売・教育・遊びまで 中江克己 PHP研究所】

 江戸時代の金利 
江戸時代の公定金利は12〜15%と言われる。

■ 江戸時代の砂糖の生産
・ 1610年に奄美大島の直川智(すなおかわち)が黒砂糖の製造に成功した。

■ 江戸時代の塩の生産
1800年代の初頭、塩の生産は500万石だが、その9割は十州塩田産。十州塩田とは瀬戸内海沿岸の十の国?の塩田。

■ 江戸時代の休日

■ 江戸時代の重要政策
諸大名を貧乏にする重要政策は「参勤交代」と「天下普請」と「転封」そして「鎖国」。つまり諸大名が勝手に貿易をして収益を得ることを禁じたのである。実際、幕末に官軍派となった主要大名家は密貿易によって収益を得ていたという。1609年に、諸大名家に「五百石積(約50トン)」以上の船の建造を禁止した。そして、幕末に官軍になった主要大名家の特徴としてあげられるのは「転封」経験がないということである。そして、「転封」しなかった大名家の多くは外様大名であった。やはり、大物の外様大名は、抵抗を恐れて、易々と転封させられなかった。【誰も書かなかった徳川家の謎 小泉俊一郎 中経文庫】

■ 江戸時代の宿泊
# 大名は本陣に泊まったが、家臣は「下宿」という旅籠屋に泊まった。
・ 江戸時代の農政学者の田中丘隅(きゅうぐ)が書いた「民間省要(せいよう)」によると、「大名家が宿泊した際には、本陣の諸道具がおびただしく紛失し、雨が降ればゴザが紛失、気に入らない事があれば畳に火をこぼし、戸や障子を踏み破る」と不法の数々を書いている。
【大石学著の続 駅名で見る江戸・東京】より

■ 江戸時代の出世の一例
・ 中根正盛は二代将軍徳川秀忠小姓として召し出され、大番となり、38歳で三代将軍徳川家光から220石を賜った。その後、小納戸で550石の加増があり、後に側衆として5000石になった。【参考:お江戸の役人 面白なんでも事典 中江克己 PHP文庫】

■ 江戸時代の出版の仕組み
・ 寛永年間の末期に、京で書籍の作成・出版・販売を行う業者は百余軒。
・ 江戸時代の初期に、幕府は貿易商や質屋などの警察的な取り締まりを必要とする業種に「株仲間」化を許した。しかし、その弊害として、「仲間の加入に多額の出費が必要」「接待が必要」「特定の者にしか卸さないという締め売り行為は、新規参入の妨げになる」などがあったという。明暦3年(1657年)に出された江戸町触(まちぶれ)でも、その弊害は指摘され、その町触の対象は20もの業種に渡ったという。ただ、これらの触では諸業種の同業者仲間を一律に禁止していたそうだが、株仲間との関連は不明である。
吉宗の時代の享保の改革では、書籍の株仲間を公認したとあり、出版が統制下にあったらしい。その中に「徳川将軍家に関する書籍の作成や発行は、以後禁止とする」などもあった。【江戸の武家名鑑 武鑑と出世競争 藤實久美子 吉川弘文館】
・ 須原屋茂兵衛: 紀伊国有田郡栖原村(和歌山県湯浅町栖原・すはら)の出で、万治年間に江戸で版元を創業。書物問屋仲間の南組の行事を務めた。【江戸の武家名鑑 武鑑と出世競争 藤實久美子 吉川弘文館】

■ 江戸時代の人口
1600年頃の全国の人口は1500〜1600万人。耕地面積は約163万5000町。享保6年(1721年)には約3128万人、約297万町。【百姓の力 江戸時代から見える日本 渡辺尚志 角川ソフィア文庫】

■ 江戸時代の人口減
現在の日本でも少子高齢化は大きな問題で、人口減少に直面しているが、かつても人口増から人口減に転じたことがある。
ものの本によると、享保の改革の増税以来日本の人口増加はストップしたといわれる。
しかし、それ以外にも度重なる飢饉の影響もあるのではないだろうか?
ちなみに江戸時代の三大飢饉は、「享保17年(1732年)」「天明2年(1782年)」「天保4年(1833年)」で、特に天明の大飢饉では東北地方に大きな被害が出、仙台藩では人口70万のうち半数が餓死したという。

■ 江戸時代の衰退
明暦5年(1657年)いわゆる振袖火事がおきるが焼けた町800町、焼死者10万人。江戸は俗に808町というから江戸の大半が焼けた。江戸城にも類焼し、江戸城本丸の修復費だけで100万両とか。
そして、その頃から諸国の金銀山からあがる鉱山収入(当時の幕府の租税収入に匹敵していた)が減少しだし、財政が悪化、貨幣の改鋳が何度か行われた。
おまけに、江戸ではほぼ6年おきに大火事がおきている。
これでは
徳川幕府が衰退しない方がおかしい。

■ 江戸時代の旅
# 参考資料: 東海道五十三次が【超】おもしろくなる本
・ 江戸時代中期の「改元紀行」と言う書物によると江戸時代に東海道を旅する平均旅程は12泊13日(江戸日本橋〜京都三条まで492Km)で、泊まりは、程ヶ谷、小田急、沼津、江尻、金谷、浜松、赤坂、熱田、四日市、関、石部、大津。
・ 東海道膝栗毛の弥次さん喜多は江戸から伊勢まで390Kmを11泊12日で泊まりは、戸塚、小田原、三島、蒲原、府中、岡部、日坂(にっさか)、浜松、赤坂、熱田、四日市。
・ 旅籠代の目安は1泊2食で200文(2000円)。
・ 昼食やお茶代の目安は50文。
・ お酒は1合30文、草鞋は10〜15文、さかやき剃りは一回3文、
・ 熱田(宮宿)から桑名までの七里の渡しの船代は45文。川越人足の費用は50〜100文。
・ 1日の旅費の目安はは300〜400文。
・ 名主が公用で旅するときに支給される旅費は約350文。
・ 東海道の旅費は、片道一両、往復二両。これは大工の一月の手間賃に相当する。また往来手形の発行費用は100文。
・ 江戸時代に時刻を知る方法の代表的なものは寺の鐘だが、旅先では役にたたない。そこで利用されたのが猫時計だそうだ。猫の目は、六つには丸く、五つと七つには卵形、四つと八つには柿の種形、九つには針のように細い。
・ 三勤交代の費用は、佐賀藩鍋島家の費用は全行程で2600両で年間予算の約20%。薩摩藩は約1万両。行列の人数は5万石で150人。加賀前田家は最大3500人。
・ 飛脚のスピード: 江戸から京都まで90時間(元禄時代)後には70時間。
# 江戸時代の旅のグルメ
・ 鮫洲名物、穴子の蒲焼き
・ 大森名物、海苔茶漬け
・ 川崎名物、奈良茶飯(炊き込みご飯)
・ 由比宿名物、サザエ
・ 安倍川名物、安倍川餅
・ 鞠子名物、とろろ汁
・ 宇津ノ谷峠名物、十団子(とうだんご)
・ 見付宿(磐田市)名物、すっぽん
・ 新居宿名物、鰻の蒲焼き
・ 桑名名物、焼き蛤
・ 草津名物、姥が餅(うばがもち)
・ 大津名物、源五郎鮒
# 東海道の旅のお土産のナンバーワンは薬。
・ 薬で有名のは小田原の「下郎(ういろう)」で、頭痛に効き、胃の中の熱を下げ、口中を爽やかにする丸薬。薬を開発した宇野藤右衛門が京都の下郎家の庶流だったことに由来する。
・ 静岡市の興津宿の藤丸膏薬。
・ 伊勢朝熊山の万金胆(まんきんたん)。腹痛や胃腸の病。
・ 草津宿近くの梅木村の和中散(わちゅうさん)。家康の命名と言われる。

■ 江戸時代の天領(幕府領)
・ 大坂、大津、奈良、神戸、横浜、静岡、甲府、新潟、長崎。
・ 函館、相川(新潟県佐渡)、伊勢、堺、倉敷、大森(島根県)、日田(大分県)

■ 江戸時代の共稼ぎ
八代将軍吉宗が、大奥の女を見初めたが、妻帯者で断られた。この女は関東郡代の伊那半左右衛門の手代の妻で、禄は30俵で、暮らしが立たないので大奥勤めをしていたという。結局、夫から離縁されて、吉宗の寵愛をうけたそうだが。【参考: 考証 大奥 稲垣史生】

■ 江戸時代の幕府と各大名家の関係
幕府が親会社で、各大名家が子会社。譜代大名は本社からの出向で親会社の経営にも参画するが、外様大名は、統制はされるが事業は独立して行っているという関係。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】
※ なるほどなぁ。

■ 江戸時代の平均的な村の姿

■ 江戸時代の苗字
江戸時代の百姓は、一般には苗字をもっていたが、公的な場所で名乗ることは出来なかった。そこで、各家の家長は、代々同じ名前(吉兵衛など)を名乗って家名とした。【百姓の力 江戸時代から見える日本 渡辺尚志 角川ソフィア文庫】

■ 江戸城を囲む七つの大地

■ 江戸城内の昼食

■ 江戸城の場所

■ 江戸城の広さ

■ 江戸の職人の収入
・ 19世紀の大工の年収は、428万6520円。
・ 明暦元年(1655年)の公定賃銀によると上大工は昼食代込みで、日給銀三匁(8100円)。【江戸の長者番付 菅野俊輔 青春出版社 ・ 1両:約16万2000円で計算 】
※ 仮に年間300日働くとすれば年間収入は約240万円。時代は違うが428万円とは大分違いますねぇ。

■ 江戸の人口
江戸の人口: 享保6年(1721年11月)の統計によると町人の人口は50万1394人。武士人口の統計は無いが全人口は100万と言われている。
※ 昔は、作物の輸入なんてなかったわけですから、主食の米の生産高が即人口に結びついたものです。江戸は諸国から米が搬入されていましたが、全国的に言えば3000万石>3000万人とかいわれましたね。
・ 1600年頃: 約15万人
・ 1700年頃: 約35万人(町人)
・ 1732年: 53万6380人(町人)
※ 武士などを合わせると町人の約2倍となる。
・ 1840年の全国の人口は約2600万人。江戸は約55万人(町人のみ)。

■ 江戸の範囲
#  江戸後期の文政元年に幕府が発表した「御府内」の朱引図による。
・ 東は江戸川
・ 南は品川
・ 北は王子
・ 西は東中野
# 寛文年間の新板江戸外絵図の測定によると
・ 江戸の総面積: 63.42平方キロメートル
・ 武家地: 43.66平方キロメートル(約69%)
・ 町人地: 6.75平方キロメートル(約11%)
・ 寺社地: 7.90平方キロメートル(約12%)
・ その他: 5.11平方キロメートル(約8%)
・ 人口約80万人。寺院約850。神社約120。町数約900。橋約270。人口密度1平方キロあたり45,000人。

■ 江戸の水
川の水は硬度が高く、それで炊くと米や豆は硬く昆布の出汁も取りづらい。だから江戸料理は硬水でも出汁がとれる鰹節を使う。深いところからくみ上げた井戸水は軟水なのだそうだ。
ビックコミックオリジナル 2011 7.20 「あんどーなつ」より

■ 江戸の歴史
・ 1603年に神田山を切り崩して日比谷を埋め立てた。
・ 1620年には、駿河台を切り崩して神田川を開いた。
・ 家康の関東移封の際に、秀吉は江戸をその中心地にすることを勧めたというが、その理由は「江戸には小田原や鎌倉にはない舟入(ふないり)があるので、今後繁盛するだろう。」とのこと。つまり港を作りやすいということのようだ。そういえば、秀吉恩子の大名は皆港町に城下を開いたが、家康譜代の大名で港町を城下にした人は少ないと聞いたことがある。やはり、秀吉は信長の影響を受けてか、海外との交流も含め、船による物流に先見の明があったのかなぁ?

■ 江戸幕府の収入

・ 八代将軍吉宗の時代(1730年)の年収は79万8800両(約1294億円)。うち、年貢が64%、残りは長崎貿易などの運上金。【江戸の長者番付 菅野俊輔 青春出版社 ・ 1両:約16万2000円で計算 】

■ 江戸幕府の役職

# 目付: 旗本御家人の管理・監察。

■ 江戸八百八町
・ 江戸八百八町の町とは、1辺60間(約118m)四方の町割りを表す。実際は最高で1700町くらいあったらしい。

■ 江戸前とはどこを意味する? 
・ 江戸時代には「西は品川州崎一番棒杭から羽田地先海面、東は深川州崎松棒杭を見通した内側の海」。
・ 現在は内湾説と外湾説があるそうだ。
・ 水産庁が設置した、「豊かな東京湾再生検討委員会食文化分科会」が2005年に発表したところによると、外湾説をとっている。富津岬と観音崎を結ぶ線の内側を内湾、千葉県房総半島の州崎と神奈川県三浦半島の剣崎を結ぶ線の内側を外湾という。

■ 江戸末期の飢饉の原因
江戸末期の飢饉は歴史でも学んだが、それが地球の寒暖の波に影響されているとは知らなかった。
 下記の本によると、現在の地球は長いスパンでみると暖かくなっているそうで、約一万年前に最後の氷河期ヴュルム氷河期が終わったことによるらしい。
日本においては、四世紀から六世紀の古墳時代は寒冷期。その前の邪馬台国の
卑弥呼の時代は今より一度ひくかった。そして、江戸時代後半も寒く飢饉が多かった。そして、その飢饉は東北地方においてより顕著だったそうだ。
出典: 日本地図から歴史を読む方法 武光 誠 著

■ 大江戸八百八町
・ 正徳3年(1713年)には933町、延享3年(1746年)には1678町あった。【お江戸の地名の意外な由来 中江克己 PHP研究所】

■ 大奥

■ お国替え(転封)
・ 藩士や、その家族も含めた異動だったので、人(苗字)や文化の移動をともなった。
・ 藩札の精算が必要だった。
・ 幕閣の有力者は、その権限を利用して有利な地へのお国替えを画策した。
例) 江戸時代後期に、唐津藩主だった水野忠邦は、老中になるのに不利として、減収覚悟で浜松への転封を画策した。そのために、浜松藩主の井上家は奥州棚倉へ、棚倉藩主小笠原家が唐津に玉突き転封した。

■ 歌舞伎役者
・ 江戸時代後期の1815年の「役者給金附」によると、「千両役者」は7人いた。千両は約1億6000万円。【江戸の長者番付 菅野俊輔 青春出版社 ・ 1両:約16万2000円で計算 】

■ 家老(かろう)

■ 清洲越し
・ 1610年に徳川家康により、清洲から名古屋に街ぐるみの大移動。その数6万人という。清洲は水攻めに弱い。

■ 鎖国はあったのか?
※ 実際には江戸時代には「鎖国」はなく、誤訳といわれるが、とりあえずここでは「鎖国」という用語を使います。
江戸時代には鎖国政策により、長崎の出島だけが交易可能とされていたが、実際の海外との窓口は4つあった。
@ アイヌを媒介として大陸との交易があった松前家。
A 朝鮮との交易の基地だった対馬。
B オランダや中国との窓口だった長崎の出島。
C 朝貢貿易の基地であった琉球(薩摩)。

■ 上洛
・ 将軍家の上洛は1634年の徳川家光が最後。

■ 駿河町の越後屋八郎右衛門(三井家)は江戸、京、大坂に店を構えた。越後屋八郎右衛門の年収は約17億5500万円で三万石の大名家に匹敵した。【江戸の長者番付 菅野俊輔 青春出版社 ・ 1両:約16万2000円で計算 】

■ 関ヶ原の戦い
・ 関ヶ原の戦い後、徳川家は敗れた西軍の領地約632万石を没収した。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

■ 大名家の改易数
・ 家康時代41家、徳川秀忠時代38家、徳川家光時代47家。【誰も書かなかった徳川家の謎 小泉俊一郎 中経文庫】

■ 江戸時代の経済政策
・ 田沼意次の重商主義的な経済政策で、幕府の財政は改善に向かい、景気が良くなった。ところが、都市部は潤い、町人文化が発展したが、農村部は荒廃し、両者の格差は広がり、格差社会を招いた。【日本人なら知っておきたい 江戸の武士の朝から晩まで 歴史の謎を探る会編 KAWADE夢文庫】

■ 相続
# 跡目相続: 親が死亡して、子供がその跡を嗣ぐ。
# 家督相続: 親が隠居して、子供がその跡を嗣ぐ。
【日本人なら知っておきたい 江戸の武士の朝から晩まで 歴史の謎を探る会編 KAWADE夢文庫】

■ 徳川家斉の子の主な養子先
・ 紀伊(御三家)、清水(御三卿)、田安(御三卿)、鳥取、津山、浜田、福井、徳島、明石。

■ 長崎見廻り役
・ 唐津藩主が努めることが慣例だった。 

■ 旗本の屋敷
長谷川平蔵の屋敷は、池波正太郎の鬼平犯科帳では江戸城の清水門外にあるが、実際には目白台にあったという。【江戸の武家名鑑 武鑑と出世競争 藤實久美子 吉川弘文館】
※ まぁ、史実と小説は別物だし、著者も「池波正太郎さんも承知の上で書いているのだろう」と記している。

■ 幕末
・ 幕末に佐幕派の代表格として徳川家を守ろうとしたのは会津と桑名の松平家だが、どちらも尾張家の分家の高須松平家からの養子で、血統的には水戸家の流れ。水戸家は勤皇派だったよなぁ。【誰も書かなかった徳川家の謎 小泉俊一郎 中経文庫】

■ 百姓
・ 江戸時代の百姓の多くは農業で、漁業や林業の場合もあった。
※ 現在では、百姓というと「農民」を指すように思われるが、その職種は広範囲であった。
・ 百姓の中には漁業、林業、商工業など多様な職業にたずさわっていた人を含んでいた。農業における百姓とは、土地を所有し年貢や役などの負担を果たしていていた人。【百姓の力 江戸時代から見える日本 渡辺尚志 角川ソフィア文庫】

■ 武家の女性の呼び方
・ 将軍の正室: 御台所(みだいどころ)。御台さま。
・ 御三家や御三卿の正室: 御簾中(ごれんちゅう)。
・ 大名や旗本の正室: 「奥方さま」「奥さま」
・ 御家人: 「御新造さま」。
【日本人なら知っておきたい 江戸の武士の朝から晩まで 歴史の謎を探る会編 KAWADE夢文庫】

■ 武家の奉公人
・ 若党: 士分格。
・ 中間: 士分と平民の間の身分。
・ 小者: 平民の雑用がかり。
・ 1000石クラスの旗本が登城する場合には、先頭を2〜3人の若党が歩き、その後ろに馬に乗った主人、その馬を引く口取り、馬のまわりには数人の侍と槍持ち、さらにその後ろに2〜3人の挟み箱持ちがついた。【日本人なら知っておきたい 江戸の武士の朝から晩まで 歴史の謎を探る会編 KAWADE夢文庫】

■ 目に見えない権威
聖武天皇の遺品を収めた東大寺の正倉院は、それほど警備が頑固な施設ではないが、古代より窃盗などの被害にあったことはないそうだ。つまり、天皇家という武装はしていないが、見えない権威に守られていたという。その権威をコントロールしようとして作られたのが、「禁中並公家諸法度」である。
・ 第一条: 天皇は芸能(和歌、蹴鞠)に専念すべし。
・ 第七条: 朝廷と幕府の連絡役である武家伝奏には殿上人であっても背いてはならず、背く者は流罪に処す。
・ 第十一条: 武家の官職は公家のそれとは別枠にする。
【誰も書かなかった徳川家の謎 小泉俊一郎 中経文庫】

■ 賄賂
・ 江戸時代の価値観として、「人に物を頼むときには贈り物をするのは当たり前で、それを賄賂だと目くじらたてるのは一般的な概念ではなかった。」。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

【ワンポイント】

・ 江戸時代の乳幼児の死亡率は75%。

・ 御用留(ごようどめ): 領主からの通達などは、手書きの文書として領内の村々に回覧板的に伝達された。その際に、受け取った村の名主庄屋)は備忘のために内容を写し取った。この帳面を「御用留」とよばれた。【百姓の力 江戸時代から見える日本 渡辺尚志 角川ソフィア文庫】

・ 自検断(じけんだん・地下検断): 戦国時代の村は、自らの武力で村を守り、村掟(むらおきて)という独自の法で秩序を保ち、村掟を破るものは村内で裁いた。【百姓の力 江戸時代から見える日本 渡辺尚志 角川ソフィア文庫】

・ 文化10年(1813年)に、信濃国諏訪郡乙事(おつこと)村(長野県諏訪郡富士見町)では、文書保存用の郷蔵(ごうぐら)を建てた。乙事村では名主の任期は1〜数年だったが、その都度投票し、村の最高責任者を選んだ。【百姓の力 江戸時代から見える日本 渡辺尚志 角川ソフィア文庫】

・ 明治8年(1875)年における学齢人口(6〜13歳)の就学率は男子54%、女子19%。全国の寺子屋の数は明治8年で15,506校。19世紀には1軒の寺子屋に、平均して男子が42.9人、女子が17.3人いた。【百姓の力 江戸時代から見える日本 渡辺尚志 角川ソフィア文庫】

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